菱呂が消えてから四日が経った。
だからと言って里は何も変わらず、祭事家のごく一部が忙しそうにしているだけで、気にする者もほぼ居なかった。
里は祀りから遠ざかっていた。あの日だけは霊女に敬意を示すため、身の周りから白い衣服や白い食べ物といったあらゆる白を避ける決まりがある。沐浴や水浴びも控えるのだ。
しかししきたりを守って日が一回りすれば、やはり祀りは終わっていた。
「こんにちは見石さん、土のお手入れですか。今日も火和湖のお陰さまですね」
「ええ、畑が少し荒れてしまっていたので」
見石は引っこ抜いた雑草の束を抱え、畑で通りすがった里人に挨拶した。
誰も菱呂のことなど口にしない。雑草の方が、まだ気に留められている。
許せる言葉ではないが、「いなくなってくれて良かった」とすら言われない。
「お前はさ……どこに行っちまったんだよ」
見石は戯れに雑草を摘まみかけたが、友を雑草だと言ってしまう気がして、やめた。
菱呂なら、多少の怪我があっても生きられる。無様な死など信じられないから、絶対に生きている――疑いがないからこそ、四日も見つからないのが不思議でならない。
祀りの前夜、棒を交えた時。
菱呂の気迫とみなぎった血は生半可ではなかった。充実が棒に力を与えていた。
あそこまで命が瑞々しいものが、あっさりと儚くなる筈はない。
あぜ道の向こうから、妻の姿が見えた。
家で昼の支度をしていた筈の摩耶女は、よほど焦っているのか、息を切らしている。
「あなた、すぐに祭事家へ行って。使いの方がいらして、一陀羅さまがお話があると」
見石は首を傾げたが、行かないわけにはいかなかった。
途中で菱呂の畑を通り過ぎた。祭事家の若い男が耕しているが、よく知らない者だった。
見石には多くの友が居る。同年代なら全員、年が離れても大勢が遊び相手だ。
しかし彼等が――見石の居る場では控えるにしても――菱呂を蔑むのを知っていて、面と向かっていさめられたことは無い。それで菱呂の友だとは、せいぜい自惚れた言い草だ。
だから摩耶女が自分の告白を受け入れてくれた時は驚いた。
菱呂は口を固くし続けたが、摩耶女へ同じ眼差しを持っていたことはとっくに気付いていた。幼馴染同士、どちらも初めて意識した女だ。ならば菱呂の方が良い男に決まっている。
今でも見石は、信じている。
摩耶女が自分の方を向いてくれたのは、菱呂が己より少し年下で、己の方が少し早く男というものになっただけだと。
妻を侮辱することだから尋ねないし、墓に仕舞い込む問いである。
畑を抜けた辺りで、摩耶女が小さくつぶやいた。
「私は、どうしても分からないのよ。あんなに美しい方、あれから見たことがないのに」
あまりに唐突で、見石が意味を汲み切れないでいると、
「菱呂くんのお母様よ。あなたも見たこと、あったじゃない」
「あ……ああ、そうだな。覚えてるよ」
そうは答えたものの、「またその話か……」という気分だった。
本当に摩耶女は屈託がなさすぎる。
他の男を、よりにもよって菱呂を目の前で褒められる焦りに気づいてくれない。
気づかないような無邪気な女だからこそ、好きなのだが。
見石は幼いころ、父に連れられ、菱呂の家にお裾分けをしにいったことがある。摩耶女も手伝ってくれた。その時、まだ子供と赤ん坊の間だった歳の菱呂を抱く女性がいた。
菱呂の生母は日がな年中家にこもっていたから、姿を見た者はろくにいなかった。その頃はすっかり菱呂の父にも嫌われていたのに、尚も家に居たのは、知らない土地の知らない言葉で揶揄され笑われ好奇の目に晒されるより、まだ牢が良かったのだろう。
かつて見石が父の脚を柱にして隠れ、膝の隙間から覗いた彼女は、俗世のものとはかけ離れた美しさがあった。秋風に揺れる麦の色をした金髪に、遠くからでも目に焼き付いた鮮やかな水色の瞳。どこかひんやりとして、水にひたされた輝石に似たひとだった。
「あんなに美しい人をなぜ、悪く思うの。あなただって、不思議じゃない?」
「……そうだな」
しかし見石は、何も言わない父に育てられたから、辛うじて菱呂と口をきける己を知っている。実際、菱呂の父なら苦々しいと感じてしまう。
見石は里に生きながら、時に里が窮屈で、それでも結局は里の人間である。
この程度のことに息が乱されるのに、菱呂はどれほどの十六年を送ったのだろう。
――それでもお前は、こんな俺を友と思ってくれていたのか?
本当に、己はこんな程度の男だ。菱呂には持てる全てで負けっぱなしで当然だった。菱呂が常にひそめていただろう、決して表に出せなかった悲しみですら、彼の美しさの陰影であり力強さの源泉だった。
あんなに完璧な男はいない。幼い頃から誰より知っている。時に優しく、時には好いた女を獲られないかと、でかい図体で怯えてしまうほどに。
そして妬んだ。
いつもどこかで妬み続けた。
そんな汚い己を認めるのも悔しくて「誰より一番の友だ」と唱え続けることでごまかしてきた。おそらくは菱呂に、そんな滑稽な心持ちをなんとなく見抜かれていたのも知っている。
――だからあいつは、俺に頼りきらなかったんだよ。
――見石というのは、本当にちっぽけな男だ。