天の仔  第6章 − 6回


「……菱呂、頭でも打ったのか」
「ううん」
「酒の匂いもしないな……いいや、お前は酒は呑まないか」
「この前、父さんに付き合って少しだけ呑んだよ」
「そ、そうか。珍しいな」
 見石は自分の棒を拾うと、
「俺も鍛え直しだ。いつの間にお前にこれだけ強くなられてると敵わないな。防人のお役目がひと段落したら、また一緒に稽古をしよう」
 それから見石はふいに、放り投げるようにつぶやいた。
「……そうしてくれなければ、俺はいつまで経ってもお前に勝てないんだ」
「え、勝つ?」
「お前にはな。棒も、細いのに山を走り回る力も、そのくせ誰より美しい容姿もだ。俺は生涯、勝てはしないな」
 そして「まあ、美しくなりたいわけではないが」と、一人で笑ってみせた。
 菱呂は何がおかしいかよく分からなかった。
「そんな、摩耶女さんみたいなこと言わないでよ」
 だからこういう取り繕った返事が精一杯。
「……摩耶女、か……」
 見石は妻の名を口にしたかと思うと、今度は本当に適当に、木の枝を放り投げた。
「俺はいつまでもお前には勝てないな!」
 そんなことを口にしながらあっけらかんと笑っている。
「もう、勝ち負けって、僕は君と競うつもりなんかないよ」
 菱呂はいよいよ不思議でむくれてみせ、見石はますます漏らす。
「お前は、競ってすらくれないんだな」
 その声が菱呂に聞こえることはなかった。
 菱呂は友が静かになったのを感じ、木のたもとで御山を仰いだ。
 これだけ軽口を叩きながらも見石が娘の話をしないのは、彼なりに思うところあってのことだろう。しかし菱呂は菱呂で話をしないわけにはいかない。
「ねえ、見石。僕は試合で、君に勝てて良かったと思ってるよ」
 見石の体が少し強張ったようだった。
「もし君が防人だったら、霊女がどうやって死ぬのかを見ないといけなかったから」
「おい、死ぬって……! そりゃあ、そうとも言えるが、霊女さまじゃないか」
「死は、死だよ。人として死ぬんだから」
 伊由古は痛みを知っていた。この俗世の者ではない霊女であってもだ。
 御山を敬う気持ちは変わらない。歴代の霊女も役目を果たしただろう。
 それでもあの少女は、人だ。
「見石。君は意気地なしの僕と違って勇敢だ。この里の人間でもある。君が防人なら、きっとお役目を立派に果たしていたよ。だから僕は君に勝てて、本当に良かった。君を今以上、苦しませずに済んだだけ……僕はせめて君を慰められたのかもしれない」
 風が吹き、小さな雲が月を隠してまた月が現れてから、
「……菱呂。お前、どうした」
 見石はいよいよ混乱して、水色の瞳を覗き込んだ。何か不用意な言葉で怒らせたか、もしかしたら家から追い出した事を恨まれているのかと疑った。菱呂はそんなことを責める男ではないが、彼だって人なのだから、虫の居所が悪い日もあるだろう。
 しかし見石は息を呑みこんだ。
 友は十六年間で一度も見せたことがない、今宵の月のように気高く空のように澄み渡った笑みを浮かべていた。
「待ってくれ。お前、どういうことを言いたいんだ? もしかして俺が……祭事家に忍びこもうとしたこと、責めているのか? だったら言ってくれ、俺はどんな罪でも――」
「まさか」
 菱呂はすぐ、強く強く、否定する。
「罪のはずがあるものか」
 ふと、泣きそうな声だった。
 しかし次の一刻にはもう、
「じゃあ、そろそろ行くね。付き合ってくれてありがとう」
 菱呂は棒を背負って軽やかに歩み、後は夜闇に溶け込むだけだった。
 見石はただ、なにか辛いことではないような雰囲気を信じるしかなかった。