菱呂は取り敢えず、そこいらの布や手ぬぐいに物品を手当たり次第にくるみ、棚に放り上げた。
それにしても理島は、よくよく注意が効かない性分らしい。歩くのも着替えるのも遅い。鈍くさいとはまた違うが、正直なところ、侍女に向いていない気すらした。
と、持ち上げた布の下に、真っ白で手のひらより小さな箱があった。
「あっ!」と思った時には遅く、菱呂の足は思いっ切りそれを踏みつけていた。
箱は固い素材だったが、駄目だった。蓋と箱、どちらも一角がひしゃげてしまっている。中に敷かれていた柔らかな布も飛び出している。
すぐに表面のほこりを手で払った。箱は白い布張りの板で作られている。これなら布をはがし、板を補強し、布を張り直せば元通りになる。
「……どうしよう」
綿ぼこりが積もり、表面が灰色に変わっていた箱が、今日明日でいきなり要り用になるとは考えられない。
それに壊れたと知れた時、怒られるのは己ではなく理島だろう。
――直して明日、こっそり戻そう。
菱呂は箱を袴の腰にくくりつけると、改めて伊由古の元へ向かった。
「伊由古さま、少しの間、ご辛抱ください」
両腕で抱き上げた伊由古はとても軽かった。冗談ではなく、見石の半分あるかないかの重さだ。ろくに歩かず、饅頭しか口にしなければ、当然だろう。
座から寝台までは五歩か六歩だが、菱呂は十歩くらいかけて慎重に進んだ。伊由古は腹に手を泳がせているが、苦しげではない。男の腕の中にいて慣れた感じすらある。菱呂は違和感もなくそう思っている。
裸のを伊由古見てあれほど取り乱したことが、今では嘘のようだ。
「伊由古さま、お休みください」
菱呂は寝台に、ゆっくりと伊由古を横たえた。白い袴の裾が少しまくれ、真っ白く棒のような脚が見えた。膝の裏側やふくらはぎには、また肌を吸われた赤い痕が残っている。
でももう、気にしたって仕方ないことだ。
腹の上を行きかっていた伊由古の腕が、ひざまずいた菱呂の頭に向いた。
菱呂に口付け寸前の記憶が蘇った。
あの時と同じだ、彼女は求めている。
すると――どうだろう。
菱呂の目に、真っ白に映っていた伊由古の隅々までが、極彩色の淡さをもって彩られた。
肌は淀んだ雪ではなく、貝に宿る玉の白。唇は枯れた草でなく、小振りな菊の色。髪は月光線、瞳は秋の葉、指はせせらぎの涼。
伊由古の手が、菱呂の頭衣の前垂れに触れた。
「……っ、伊由古さま!」
菱呂は追い払うつもりで、彼女の頭上に手を振り上げた。
「うっ……あぅっ」
伊由古が即座に、己の頭を両手で抱えた。
首を丸め、肩をすぼめ、肘を顔の前ですり合わせ、固く強く頭を抱き抱えた。
「いゆ……こ、さま」
菱呂は己の手を恐る恐る降ろした。それでも伊由古の姿勢は解かれない。菱呂に肩を向け、頭をか弱い両手で包んでいる。腕の間から覗く瞳は、今まで見た事がないきつさで閉じられ、歯がかたかた震えている。赤かった顔も血の気が引いている。
あれほど虚をまとった伊由古が、今だけは別人となって素早くこの姿勢をとった。
まるで頭を守るように。
――怯えているのか?
大声を出し、手を頭上に振り上げた者に対して。
――それは……殴られるという怖さを、知っているということなのか?
菱呂は分厚い衣の下に汗がじんわりしていき、寒気を覚えた。
やがて理島が戻って来た時には、彼は大人しく控えの間に下がっていた。
理島は菱呂を帰し終わると、再び小屋に入った。
居室の寝台の隣には八右智が佇み、伊由古をじっと見下ろしていた。
八右智は理島に気づくと、すぐ唇に人差し指を当てた。
「やっと眠ったところだ」
彼は足を忍ばせ、奥の廊下から庭に出た。
理島は何歩も遅く、後から着いてくる。
「――雨だな」
庭なら空が仰げても、厚い壁の白い小屋からでは外など何もうかがえない。
「ここは晴れても雨でも、同じ風景だ。同じでなければならないのだ」
八右智は小さくなっている理島を見やり、溜息をついた。
「もう少しだけ、周りに気を配ってくれ。彼はもう、お前の行動に疑問を持ち始めてしまっているだろう。彼が小屋に居る時だけは……お前は、侍女なのだ」
平謝りする理島の肩に八右智が手を置く。
その手を、開いた方の右目でじっと見つめながら、彼女はもう一度頷いた。
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