「理島さん!」
菱呂は彼女の元へ駆け寄った。
気づいて顔を上げた理島は、疲れて呆けた様子でいる。
「すぐに解きます。誰がこんなひどい真似を……!」
訳を聞くより前に、菱呂は鎖に手をかけた。鎖の先はかごの壁に埋め込まれ、粘土か何かで固められている。もう片側は理島の右足首にはめられた、堅い木の輪と結ばれている。
力いっぱい鎖を引っ張ったが、壁は強く固められており、鎖を埋めた粘土の表面が軽くひび割れただけだった。
時間がかかる、と思った時だった。
菱呂の胴体が冷たい気配を感じた。
咄嗟に後ろへ跳ね退いた。すぐさま右のふくらはぎがじんわり熱くなった。
彼のふくらはぎは衣ごと、縦に避けていた。その間にのぞく肌もまた赤くなっている。衣と同じ形で皮ふが避け、血がたらたらと流れている。
菱呂の前で、理島はうずくまっている。両手に握った小刀の切っ先に血がついている。
理島は菱呂を刺そうとしていた。
逃げていなければ、胸か腹を突き刺されていた。
「……死んでくださいませ」
顔を上げた理島は、迷いなく菱呂を見すえていた。
「死んでくださいませ、またはお一人でどこかへ消えてくださいませ、さもなくば今ここで死んでくださいませ!」
彼女は膝で立ち、小刀を握った両手を振り降ろした。だが鎖で繋がれた体は、間を取った菱呂にはまるで届かない。
「理島さん、どうして! 落ち着いてください!」
菱呂は刃物を奪おうとしたが、相手はもうめちゃくちゃに刀を振り回すばかりだ。
「八右智さまがお望みなのです、どうか、消えるか死ぬかどちらかなさってくださいまし!」
振り下ろした刃物が土に突き刺さった。
その時、火和湖を包む岩の陰から、大きな足音が鳴った。
肩で息をし、汗をたらたら流し、伊由古をおぶった八右智が現れた。
「っ……理島ぁ!」
八右智は様子を見とめるや否や、大股で駆け出した。すでに大きく息を切らしているが、それでも伊由古をおぶったまま、かごの元へと一直線に走った。
彼が伊由古を地に降ろすのと、理島の手首をつかんだのは同時だった。
「何をしている!」
理島の手から小刀がこぼれた。八右智は汗が流れるままの体で、そこに菱呂と伊由古などいないかのように、理島だけを見て彼女の肩を抱いた。
「お前が人殺しになどなってはならない!」
男の腕の中で、理島は眉をしかめ、口を薄く開いて、不思議そうな顔をした。
「どうしてでございますか。菱呂さまが消えてくださらないなら、死んでいただくしかないのではありませんか。あなた様が望んだことではないのですか」
「それでもだ」
八右智の目の端に火和湖が映っている。
呆れるほど空は晴れ渡り、日差しがさんさんと射している。
火和湖の湖面を鏡のように照らしている。
決して日が隠れず、湖の奥が透けないようにと、八右智は今この時も願い続けている。
かつて湖の奥に、たくさんの霊女たちの枯れた骸を見た。
――もう二度と、哀しい死だけは見たくない。
「それでも死ぬということだけは、あってはならないんだ!」