菱呂は畑へ走った。途中で幾人もの人々が「こんにちは」と挨拶をしてくれる。彼は律儀に一つずつ頭を下げて、尚も足は緩めず、畑の端へ走り続けた。
畑と外を区切る木立に、そっと足を踏み入れた。
その人は入ってすぐの木にもたれかかっていた。
「こんにちは。今日は、とてもいい天気ですね」
菱呂は唱え、木漏れ日の隙間から天を仰いだ。季節は春を迎えたばかりで、まだ肌寒さは残るが、白い雲がのんびり浮かぶ澄んだ青空が広がっている。
「今日は絶好の畑日和ですよ」
その人は空ではなく、自身の体に落ちる、黄金色の日差しに目をやった。
それから眉を寄せ、まぶしそうに目を細めて菱呂を見た。
「はい。きっと、いいお天気なのでしょうね」
そして彼女は、深々と腰を落とした。
「お久しぶりにございます、菱呂さま」
菱呂は彼女の名を何と呼ぶべきか、少し口ごもり、
「――理島さん」
きっと己が呼ぶのであればその方が相応しいだろうと、彼女の名を口にした。
理島は不思議そうに菱呂を仰いだ。
「驚かれませんか。急に、わたくしが尋ねにまいって」
「驚いたのは、もう数ヶ月も前のことです。この地を訪れた旅の行商が、別の里で『金色の髪と空色の瞳の青年を探している』、そう尋ねられたと話していました」
菱呂は久方ぶりに彼女を目にしたが、この人もまた、驚くほど変わっては居なかった。
少し痩せたが妙に憔悴した様子はない。着るものも贅沢ではないが、特に粗末ではない。八右智も健在で、二人でひっそりと暮らしているのだろう。
何処でどのように過ごしているかは聞かなくて良いし、知ることに意味があるとも思えない。
「見石との約束、守ってくださったんですね」
先に切り出したのは菱呂だった。
「生き続ける、と」
そしてもう分かり切っているような問いを自ら口にした。
「伊由古の手は美しいままです。畑も耕せない、針もろくに動かせない。言葉は、まだおぼつかない童女よりも使えません」
息を呑んだ理島に、菱呂は微笑みを向ける。
「あなたはどうすれば伊由古に許してもらえるか、尋ねにきたのではありませんか」
彼女は見えている方の右目だけを穏やかに緩ませ、小さく頷いた。
「……菱呂さまの空は、全てお見通しでいらっしゃいますね」
菱呂は己の心の天を、伊由古に出会った時から晴れ上がっていった空の、その彼方から差した金色の光を、一つずつ掴んで言葉にしていった。
「おかしいでしょうか。僕はあなたに罪があったとはどうしても思えないのです。八右智さんも同じです。むしろ死という最後に踏み込まなかったことが、尊いとすら感じられます。ただ怖かった、それが理由だとしても……仕方ないことでしょう」
どんなことを思い出しても、あの頃は、いつだって一つの言葉がつきまとっていた。
いつも「仕方ない」と言い続け、何も辛くない痛くないと誤魔化していた。
でも今は、「仕方ない」ことも確かにあるのではないかと思える。
「だって、あなたに何ができましたか」
響きだけならむしろ辛辣だったが、それが菱呂の心からの声だった。
己を痛ませるためではなく痛み続けた人が生きるために、きっとこの言葉――「仕方ない」はあった。
「わたくし達は……あの子に許してもらえる日が、くるのでしょうか」
理島がやっと紡いだ言葉もまた、菱呂が思っていた通りのものだった。
「わかりません」
だから菱呂はまたすぐ答える。
「伊由古は己の身に起きたことすらわかっていないでしょう。だから天に許されて命が終わる日まで、あなた方を罪とも思えず、許すということもできないでしょう」
これは罪と思う限り一生、背負う罪だ。どんなに是だろうと否だろうと、謝りたい相手は一生なにも語ってくれない罪だ。
だから、続けていくしかない。
「生き続けてください」
菱呂は居住まいを正すと、こもれびを正面から浴びた。
「あなた方の声が、通じる日まで。その日がこなくても、最後の日まで、伝え続けてください。想い続けてください、伊由古を。生きて、続けてください」
理島は黙って背に光を受け、影を濃くしていた。
でも一歩を踏み出そうとしている。
その様に菱呂は、また微笑みを贈った。
「今度、八右智さんとお二人で、またいらして下さい」
出し抜けにあえてさっぱり告げると、理島は目を見開いた。
「伊由古も僕も、あなたのお母様もいらっしゃいます。僕はいつでも歓迎します」
理島は眩しそうに目を一度つぶり、手を胸に抱き、やっと口を開いた。何度も「はい」と繰り返し、頷いていた。