二十年前、菱呂の父は都に下った。都の長が大きな戦を仕掛け、この里でも若い男を出せと命じたからだ。同行した者によると、父は戦場となった遠き西の土地まで物見遊山で赴いたらしい。だからだろう、右脚に一生癒えない傷を負った。
だが若い娘を手に入れた父は、満足していた。
娘は占領された土地の主が、服従の証として宛がった。奴隷だが、菱呂の父に贈られたものはたまたま上玉だった。金色のやわらかな髪と、水か空の映った瞳、雪の肌。
彼女は自身に生き写しの、可愛らしい男児を生んだ。
菱呂だった。
脚を言い訳に、菱呂の父は堕落をむさぼった。酒と女が毎日の全てになり、里の誰もが彼に眉をひそめた。当時まだ健在だった菱呂の祖父母は、奴隷にかどわかされたとして、息子の落ちぶれようを金髪の嫁のせいにした。
言葉も通じない土地で、菱呂の母は生気を失くしていった。その特異な見た目と娼婦という出自は、里人に排斥されるには十分すぎた。菱呂の父は彼女をただ弄ぶのみで、力になどならなかった。彼女は、夫の両親には居るだけで蔑まれ、果ては夫にまで憎まれ、最後は痩せ衰えて死んだ。
生母の死に至るまで、菱呂が生まれて二年もなかった。
祖父母が死んだ時も彼は五つだった。
菱呂の足が、里の一角にある家を前に遅くなった。見石と摩耶女の家である。
菱呂が幼く、まだ飯の支度も出来なかった頃。父の機嫌を逆なでして飯にありつけなかった時。ぽつねんと夕暮れを歩く菱呂を、夕飯に招いてくれたのが摩耶女だった。彼女の両親も良い顔をしなかったが、遠慮をしようものなら、いつも摩耶女に叱られた。
「お母さまゆずりの美しい顔が台無しよ」と――。
菱呂は里を横切る小川に出た。ここを下り、木立を抜ければ、畑が広がっている。
小川のふちにしゃがみ、たもとに忍ばせていた小鉢を供えた。
生母の墓は無い。
名すら、未だに教えてもらっていない。
これまで菱呂の父は、家に起こった一切の祭事を挙げてこなかった。
死んだ生母や祖父母の、年次ごとの供養。菱呂の父が、旅の行商が連れていた娼婦――加佐名を奪い、嫁にした時。彼女が身ごもった時。
だから菱呂は大人であれば誰もが挨拶を交わす筈の、里一番の有名人である祭事家の今代家長である八右智と面識がなかった。
仕方がない。
自分の父はあの人で、母はそういう人なのだから。
最も蔑まれた者同士の息子なら、誰より汚らわしく見られても当たり前だ。
この里に生まれ、育ったのだから、全て仕方がないことなのだと。