天の仔  第7章 − 4回


 日差しが肩に当たるようになった頃、八右智が急に足を止めた。
「――ここだ」
 そこは、ただの坂の途中だった。右は裏の山が臨み、左は地面から突き出た背の高い岩が視界を遮っている。前方にも殺風景な坂が伸びるだけだ。
 ただ、数十歩進んだ辺りの左斜め前から、やけに明るい光が差し込んでいた。
「あの場所で岩が途切れる。あそこが、火和湖の入口だ」
 八右智は籠を降ろさせると、若い衆をねぎらってから帰させた。
「ここから先は、三役のみだ。菱呂くん、君と私で持てるね」
「はい。かしこまりました」
 菱呂が棒の後ろ側につき、二人で籠を担いだ。石に注意しながら慎重に進み、光が差し込む辺りまで進んだ。丁度そこで岩が途切れ、自然の門となり、左へ入れる形になっていた。
 岩の間に入ると、もうそこに火和湖が広がっていた。
「ここが火和湖ですか……!」
 菱呂は幾らかの意外と驚きで叫んだ。
 驚きは、火和湖の姿形だ。火和湖はゆるいすり鉢状の形をしていた。岸から斜面を背の高さほど下がった所に水面があるのだ。湖のほとりは尖った岩に囲まれている。
 奥の崖からはひさしとなって岩が張り出し――いや、くりぬいた崖に火和湖が埋まっている。湖の手前には陽が入り、奥は岩の屋根に包まれている。ほぼ洞穴、と言った方が正確だ。
 また、意外は、その小ささにあった。火和湖は目で一面が追えた。周囲を走って一周するには、湯が湧くまでの時間があれば足りるだろう。
 湖へ入るには二か所の入り口がある。
 一つは三人が入った岩の切れ間。もう一つは正面右手の岩の切れ間だ。後は視界が開けていない。
 歩いてきた道を火和湖に入らず直進していたら、その先は裏の山へ繋がっている。行き着く先は谷である。
 また反対側である正面右手の岩の切れ間の先は、隣の山へつながっているらしい。その切れ間から少し下れば木立に差し掛かり、さらに先は奥深い緑が広がっている。そちらの道には、火和湖から何か流れた跡もある。土の色が他より一層暗く、丸まった石が泡のように噴き出ているから、煮え岩の名残だろう。
 籠は火和湖のほとり、これといって特徴もない所に置かれた。
 理島はまだ岩の切れ間に立ち止まっていた。
「理島さん、どうしましたか。足でも痛くなりましたか」
 彼女は言葉を発する前に、八右智を仰いだ。彼が眼差しで頷き、理島も頭を下げてから、火和湖のほとりに足を踏み入れた。
「ここの石は……滑りますから……」
 理島は火和湖に身を背けながら、背負っていた白い衣を菱呂と八右智に渡した。
 全員の支度が整うと、八右智が籠にかぶせた白い布を取り外した。
 籠の中で伊由古は、相変わらずお行儀よく座っている。それを男二人がかりで籠から抱き上げ、地に立たせる。目隠しもまだ外していないので、足を地に着けた時は少しふらついた。
 三役は伊由古の隣に立ち、火和湖を正面にした。
「これより霊女さまが、火和湖に入られる」
 八右智はやはり淡々と告げた。
 風が吹いたりも、湖面が揺れたりもしなかった。
「月が一つ巡る短い間だったが、菱呂くんはよく務めてくれた。侍人として礼を言おう。有難う。先代の防人を務めた私と比べれば、君は棒にも優れ、よく通い続けてくれた。その上で今また君に一つ、頼みたいことがある」
 菱呂もまた、大袈裟に息を吸う事もなく答えた。
「人を一人、湖に突き落として死なせろという願いですか」
 理島が頭衣の下で、明らかに息を呑んだ。
「僕は湖霊さまを信じています。霊女さま達のお役目も敬っています。でも……」
 菱呂は己の白い衣を縛る紐へ、静かに手を伸ばした。
「侍人に犯された霊女から生まれた娘が、父に犯されている娘が、霊女なのですか。生まれた時から奴隷にさせられた娘を、それでも霊女として火和湖に捧げるのですか」
 理島が頭衣の上から口元を抑え、数歩後ずさった。八右智は尚も動かない。
「僕は意気地なしです。そんな真似はできない」
 ――あの痛みにすがる手で伊由古に求められた時から、霊女としてではなく……
「僕は、伊由古を殺せない」