天の仔  第12章 − 3回


 その日以来、八右智は、挨拶の口上だけで小屋を辞した。
「やつーちさま、きるこ、あたらしぃのはじめたのですっ」
「やつーちさま、きるこ、きるこのころもにししゅーしたのですっ」
「やつーちさま、やつーちさまっ」
 刺繍細工、長く白い衣の袖、そして何も見せようとしなくても紀流古は座を降りた。
 その度に八右智は扉を閉め続けた。
 紀流古は十五になった。
 翌日、せめても祝のつもりで、八右智は花を摘んでいた。紀流古の目でも分かる、白い花にした。山は苦手で、足のあちこちをすりむいたが、それでも探し当てた。
 口上の後に花を差し出し、紀流古の髪にさした。
「ああ……こうしてしまうと、お前には見えなかったな」
 八右智は、この光景を待っていたのは己だったのだと思い知った。
 花を一輪、飾った。
 ただそれだけで、紀流古はとても美しい。
 すると紀流古は花などどうでもいいかのように、座からさっさと飛び降りた。部屋中の布をひっくり返し、腕に抱えられるだけのものを八右智に差し出した。
「きるこ、ししゅーしました」
 衣にも寝具にも布きれにも。大きく小さく、よく形になっていなくても。
「きるこ、ははうえにききました。『うまい』、どゆことかききました」
 紀流古は珍しく口を早く回して、溢れる言葉をひとつひとつ伝えてくる。
「きるこ、ずっと、ここがいたかったです。ははうえ、おしえてくれました」
 己の胸を指で囲い、首をうんとかしげ、両手の指を一本ずつ出し入れしながら、
「『うれしい』と『さびしい』」
 八右智を見上げた。
「ははうえ、おっしゃたです。きるこ、やつーちさまがししゅーみてくれたの、うれしい。やつーちさまがみなくなったの、さびしい。ははうえ、おしえてくれました」
 彼女は床にぽろぽろこぼしていた布を、一枚ずつ拾い上げて八右智の胸に押し付けた。
「うまい、いっぱい、ないですか」
 雨に打たれた花のように、しおれた顔で八右智を見つめてきた。
 雨が見えるのは自分自身の目が潤んでいるからだと、八右智は気付いた。
 ――冗談じゃない、しっかりしろ八右智。相手は霊女じゃあないか。
 一年したら、死ぬんだ。
「もっとうまい、あったら、いいですか」
 しかし刹那、八右智は矢も楯もなく一心不乱にがむしゃらに、彼女を抱き締めていた。
「紀流古、紀流古、紀流古……」
 夢のように名を呼び続け、細い髪を形が崩れるほどかき回し、衣越しにも分かる細い体を両手で触れるだけまさぐった。取り落とした布が次から次に床へ落ちた。
「んんーっ」
 紀流古が苦しがったので、八右智は力をゆるめ、彼女の瞳を見つめた。
 今朝つんだ花が映える瑞々しい唇へ、大事に大事に、そっと口づけた。
 その、つもりだった。
 唇が離れた時には、八右智の全身から血の気が引いていた。
「やつーちさま」
 紀流古はそこだけ別の生きもののように、唇をぬらぬらと光らせていた。
 八右智は同じく濡れた己の唇に恐る恐る触れた。
 己が濡らしたのではない。完全に紀流古の唇にいじられていた。
 紀流古は、口付けを――男の舌を弄ぶ真似を知っていた。
「呆れるほど美しい娘」を父がしつけた理由に、気付かない方が愚かだった。
 八右智は泣いていた。声を押し殺し、しゃくり上げそうな胸を必死になだめながら、紀流古に決して気取られぬように悔しさをみなぎらせた。
 そして決心した。
 愛した紀流古と共に、この家からも里からも逃げ出そう。
 祀りなど、もはやどうでも良い。霊女がこの有様で今更、湖霊もなにもない。
 しかし紀流古は足腰が上手く立たない。非力な己におぶって逃げる体力はなく、まごつく内に、誰かに見つかってしまうだろう。
 青さや情熱だけで急いてはならない。よく考え、冷静に、一度きりの勝負を確実に勝てる方法を探らなければならない。
 辿り着いた答えは、強さだった。