天の仔  第11章 − 2回


 八右智は唇の片側だけで笑った。
「だから、どうした」
 刹那、八右智の腕が素早く、背中から前へ動いた。
 身を守るには、間に合わなかった。菱呂の目の中で空が右に傾いた。まばたきの後、頭から背中へ鈍痛が走り抜けた。
 頭を打たれたと気付いた時には倒れていた。
 手を離すことも知らず、つられて倒れ込んだ伊由古が、菱呂の瞳を見た。
「いゆ……こ、逃げて……」
「いぅこ」
 菱呂の足は御山の上を向き、伊由古の足は木立に向いていた。互い違いに倒れた二人は互いに手を繋いだまま、菱呂は動けず、伊由古は動かない。彼女はそこを寝台だとでも感じたのか、白い衣にくるまって眠った数夜と同じ姿で、手をつないだまま瞳を閉じる。
 菱呂は左手に力をこめた。
 視界はまだゆがみ、首筋の痛みは引かないが、指は動く。
「ぅあああっ!」
 鼓舞と共に跳ね起き、背中に引っ掛けていた棒を構えた。体は拍動に合わせて船を漕ぎ、その度に視界が回るという事を繰り返した。
 それでも体の後ろに伊由古をかばい、八右智に棒を繰り出した。
 八右智はいとも簡単に菱呂の棒を払い除けると、己の棒を半回転させ、返す刀で菱呂の腹を打った。
「あ……あ、あ……!」
 足が石を滑ったかと思うと、菱呂は再び地面に倒れていく。
 ひどく吐き気がして視界が渦となり歪み、打たれた腹が悲鳴を上げている。
 八右智は呻く少年に全く目をくれず、眠る伊由古へ近づいた。
「ま……、て!」
 菱呂は頭上を通り過ぎていく男の足を掴み、膝から下に全ての重みをかけた。
「どうして……紀流古さんに……生まれた子に、伊由古にまであんな目に……!」
「どんな目だと? 分からんね。伝わるように言いたまえよ」
 八右智は即座に答え、倒れた菱呂の胸倉を掴んだ。片方の頬を持ち上げ、唇の端と下まぶたをその片方だけ引きつらせ、嫌な顔をして笑った。
「伊由古が『父』に犯されていたということか? ああそうだな。紀流古を犯していたのが私なら、生まれた伊由古は私の娘だな。ならば伊由古は『父』の手にかかっていたのだな?」
 彼の声を聞きながら、菱呂の中に違和感が生まれていった。
 どうしてここまで迷いなく、己の罪を語るのだろうという謎だ。
 何より不思議だったのは、八右智の眼が赤く、うるんでいくことだった。
「……どうして、泣いているんですか。八右智さん」
 答える代りに、八右智は菱呂の首に手を回す。
 だが手に力がこもる気配はない。
「あなたは、僕が厄介なはずだ。祀りの日だって、今だって、あなたは僕を殺そうと思えば殺せるはずだ」
 菱呂は己へ言い聞かすように唱えた。
 今まで考えていた八右智とは、自分を敵視している者のはずだ。
 それでも目の前にいる本物の八右智は、邪魔者を消すという行動を取らない。
「どうして、僕を殺さないんですか!」
 泣きそうになっているのは菱呂の方だった。
 しかし八右智は唐突に、菱呂の頭を持ち上げると、
「――御免」
 手刀を振り上げ、後頭部と首筋の付け根を容赦なく打った。
 菱呂はついに動けなくなった。
 体にはまだ力が残っているのに、目に映る全ての者が色も形もぐちゃぐちゃに回り合って、もう己が何処にいるか何を見ているかも分からなかった。
「ひとりで消えてくれ」
 八右智の声が響いたら、隣に寝ていた伊由古の、居なくなった気配があった。
 二人分の足音が、御山の上へ向かっていく。
「ひ……ちお」
 伊由古の声が遠く遠くで聞こえた。