天の仔  第9章 − 1回


 菱呂の腕の中でやわらかいものが動いている。
 首や鎖骨の辺りに軽いかゆみを覚えて、頬の辺りになまあたたかいものが触れて、手の中がもぞもぞして菱呂は目を覚ます。
「おはよう」
 伊由古は既に起きていたが、じっとしていたらしい。
「隣に眠る男の瞼が閉じていたら、大人しくしていろ」とでも、しつけられたのか。
 朝からそんなことを考えるのもおぞましく、これが夢幻でないことを痛感して、菱呂は白い衣から這い出す。
 洞穴は熱がこもって、冷えずに眠れたことは有難かった。
「なにか食べないとね。春みかんが生ってたから、もいでくるよ」
 菱呂が伸びをして歩き出すと、伊由古も後ろに着いてきた。
「一緒に行こうか」
 伊由古は繋がれた手を嫌がる素振りもない。本心かどうかはわからないが。
 しかし洞穴の出口に差し掛かった辺りで、伊由古は急に頭を振り始めた。ほどいた手の片方を額でさまよわせ、もう片方の手で瞼を激しくこすっている。
「伊由古、ダメだよ。傷がついちゃう」
 この少女にしては激しい動作が怖くなり、菱呂は力いっぱい手を抑え付けた。
「んんーっ、んー……」
 伊由古は目を閉じて開けて、きついまばたきを繰り返したが、ふっと目を見開いた。
 半分閉じた瞼は相変わらずだが、瞳は明らかにぐっと広がった。
 両手で菱呂の頬を包むと、菱呂の瞼に自分の瞼がくっつきそうなほど顔を近付けた。
 口付けの仕草や間合いではなかった。伊由古は明らかに、菱呂の瞳を見ている。
 菱呂も伊由古の真っ白な心に降りた何かを留めたくないから、身じろぎせずに息も殺した。
 ――僕の顔。瞳。それがどうしたんだろう。せいぜい、水色としか……
「あっ!」
 大きな声を出してしまい、菱呂は慌てて口を閉じた。
 しかし興奮し始めた胸は治まらないし、そこから何かが飛び出しそうだった。
 ――空色だ。
 伊由古は生れて初めて水色、いや、空色を見る。
 霊女だから外に出た事がない。
 昨日はおぶられていたし、すぐ夜になった。
 伊由古はいつまでも菱呂の瞳を見つめていた。二人で一つの像になったようだった。
 ――僕は今、なにを語ればいいんだろう。「目」か「空色」か、それとも……
「菱呂、だよ」
 菱呂は素直に、己を見つけていた。
「ひしろ、ひしろ、菱呂。僕は、菱呂。菱呂なんだ。こうだよ」
 菱呂は伊由古の頬に触れ、口の形を変えてやった。迷わず口の中に指を入れて、舌を導いていた。どこから湧いたかもわからないけれど、確かに息づく浅い情熱に突き動かされていく。
「ひ……し……ろ……ひ……し……ろ……ひ……し……」
「い……ち……お……ぃ……い……ぉろ……」
「そうそう、今の! ちょっとだけ近かった」
 霊女ではなく、伊由古。
 防人ではなく、菱呂。
 今ここに生きている人同士として、名を知って欲しくて、呼び合いたかった。
 菱呂が春みかんをもいでいる間中、伊由古は空に両手を振り回していた。
「そんなに伸ばしても、あれは触れないんだよ」
「いー、りー、おー、いー、いー」
「呼んでも降りないよ……ううん、それ、空じゃなくって僕の名前なんだけどなぁ」
 まるで幼い仕草がおかしくって、微笑みが絶えないまま洞穴に戻った。
 春みかんは甘かった。菱呂は伊由古の力で食べて欲しいから、口に放り込むなんて真似はしない。
 でも彼女の指で実をつまませたから、顔や髪までべたついてしまった。
「……女の人だ、ちゃんときれいにしたいよね」
 菱呂は決心し、清水に手ぬぐいを浸して絞った。自分も動きやすいように袖をまくった。伊由古に寒いと感じさせてはいけないから、火まで起こした。
 準備はこれよりないところまで進めて、やっと、伊由古の肩に手をかけた。
「ごめんよ。少しの間だけ、我慢してね」
 何重にも巻いた花嫁衣装の羽衣を一枚ずつはいだ。幾重にも着こんだ薄布は生地が薄く、一枚ごとには肌が透けるほどで、道理で重くない筈だった。