菱呂は夕食の後、気疲れですぐ床に入った。
夜中に目が覚めたら、居間は未だ灯りが点いていた。
「母上、どうされましたか、こんな遅くに」
卓を前に座っていた加佐名は、やはり唇に微笑みを絶やしていない。
「赤子の産着を縫っていたのでございます」
「頼んでくれれば、手伝いましたよ」
心は本音だが、あまり自信は無かった。菱呂は棒を扱い、畑を耕し、食事の支度もできるが、針仕事はさして得意ではない。
菱呂が水だけ飲もうと土間に下りると、加佐名が隣に立った。
不意に距離が近くなり、香が鼻をくすぐる。
さして意識したこともないが、こうすると、彼女の背は己よりかなり低い。まだ少女らしきあどけなさも残る、この母は一体、何歳だったろうか。
加佐名は両腕を伸ばし、菱呂の胸に手のひらをぺったりとつけた。
「……母上?」
「お体が冷えておりますわ。上衣をを持って参りましょう」
「い、いいです。母上も早く休んでください」
菱呂はどうしてか動揺して身をそらした。
と、卓に置かれた産着が目に入った。よい形になっている。
「母上は裁縫が上手なのですね」
「娼の頃は、衣服を自分でこしらえることもままありました。娼というのは、そういうものですわ。宿へ売られて生活を送れば、自然と身に着きますのよ」
彼女は不意に、義理の息子を見つめた。
「貴方さまには……お救い頂きました」
淡々とした声だが、菱呂がこの母の身の上を聞くのは初めてだった。父が常に妻を侍らせているから、二人きりになったことは数える程しかない。
「私が行商に従ってこの里を訪れた時……本当は、山に捨てられる筈だったのです」
「この里の先で? 森も深いし、近くに主だった集落なんてありませんよ」
「ええ。熱病を患っていた私は、死ぬ予定だったのです」
「そんな……あれは風邪をこじらせただけだったのに」
「でも菱呂さんに看病して頂かなければ、死んでおりました」
「……褒められたものではありません。僕は父に従っただけです」
二年前、娼婦だった加佐名に、菱呂の父が一目惚れした。熱に浮かされた声と色づいた肌に惹かれたのだ。彼女もまんざらでなかったのは、結果の通りである。そして父は大胆にも、娼婦を連れた行商の長へ直談判しに行った。
「いくら私が捨てられる身だったからとて、ただとは参りません。ですから行商の中でも腕の立つ男達と、この家の者に試合をさせて、勝てば私を譲る。負ければ連れていく、と」
試合の風景は、今も菱呂の頭骨にこびりついている。
里の西外れにある、石が目立つ野原だった。
行商の男は五人、内一人は刃のついた剣を持っていた。
こんな試合に足を引きずる父が出る筈もなく、まだ十四歳だった菱呂が相手を命じられた。
自惚れではなく、菱呂は勝てると思った。剣を持った男は自らの刃に怯えていたし、他の男は構えからして隙だらけだった。見石ひとりを相手にした方が、まだ苦戦しただろう。
試合には里人が、当然ながら野次馬に来た。彼等は口々に「娼婦をかけた闘い」とはやした。「父子ふたりの情婦か」とまでからかわれた。父の子に生まれたのだから仕方がない、繰り返し己に言い聞かせて、恥ずかしさと噂の端が収まるのを待ち続けた。
「あの時、菱呂さんがいなければ……私は死んでおりました」
加佐名の瞳は惚けている。
無理もない、彼女には生死を分けた闘いだった。
「母上、もう遅いです。休みましょう」
菱呂は、何かを遮るように立ち上がり、足早に部屋へ入った。