天の仔  第4章 − 7回


 翌日も伊由古は調子が悪そうで、座にぐったりと伏していた。菱呂も彼女を気遣い、迷わず手短に挨拶した。
 お陰で隙がなく、せっかく直した箱は戻せなかった。
「理島さんの前の侍女は、一陀羅さまの奥方だったのですよね」
 白い衣を脱ぎながら、菱呂は尋ねた。
「お立場は妾でございましたが、まっとうな第二夫人でございます」
 理島は敢えて夫人と言ったのだろう。この里では、養う余裕があろうとなかろうと、妾を持ったりするのは好まれない。だから菱呂も嫌われる。
「なぜ、そのようなことをお尋ねに?」
「僕は防人なのに、知らないことが多すぎます。里の歴史を学びたくなったのです」
「熱心でございますね。ありがたいことです」
 彼女はいつもより語気を強くし、菱呂を三役の間の方へ促した。
「では八右智さまをお呼びして参ります。わたくしに尋ねるより確かです。昼前は祭事の予定もありませんし、八右智さまも感心なさると思います」
 彼女はさっさと廊下に出てしまった。
 やってしまったと、菱呂は浅はかさを悔いた。
 悪気は一かけらだって無いが、昨日から立て続けに人のことを詮索していれば、あさましいと取られただろう。祭事家の家長が許すわけがない。きっと叱られる。
 八右智は三役の間に入ると、さらりと菱呂の前の座に着いた。
「君は何故、里の歴史など知りたいんだい?」
 彼はあくまで穏やかだったが、本当を言わないと許されないだろうと菱呂は感じた。
「友を慰めるために、先代の霊女さまに関わっていた方達とその心持ちを知りたいのです」
「先代の侍女は、私の母だ。父は十六年前の祀りの前には引退し、侍人を務めたのは私だ。私の上は全員、嫁いだ姉しか居なくてな。そして防人も、私だった」
「八右智さまが……ですかっ?」
「前例はなかったが、問題はあるまい。最も棒の上手かった者がたまたま私というだけだ。二番手を防人にするのなら、三役が二人になっても一番手を防人にするべきだ」
「その時は八右智さま、おいくつで」
「十八だ」
 菱呂は別のところが腑に落ちた。八右智は家長にしては若い印象があり、面立ちが若々しいのかと思っていたが、今まだ三十四歳だった。
「先代の霊女さまの生母さまは、厳粛に受け止めておられた。我々の祝儀は、働き手としての子を一人失った手当でもある。君の友も落ち着かれる日は来るだろう」
「その先代の霊女さまは……なんというお名前で」
「何故、それを?」
「見石は、娘の名も付けなかったと語っていました。伊由古さまにお名前があるのなら、霊女さまの名はどこで付けられるのかと思ったのです」
「我々が名付けるが、三役でもないものがみだりにお名前を呼んではならない」
「見石と摩耶女さんは……名を知ることはできないのですね」
「生母さまはあくまで生母に過ぎない」
「では先代の霊女さまが、なんというお名前か……防人の僕が知ってはいけませんか」
 すらすらと答えていた八右智は、そこで初めて返事を浮かせた。
 それを最後に菱呂は頭を垂れ、三役の間を辞した。
 八右智の態度で、分かった。彼は絶対の侍人であり、祀りを守っている。斗々富貴のために霊女の様子を伝えるなどという、危ない橋は渡らないだろう。
 あの刺繍を縫った者は今代か先代、二人の侍女のどちらか――
 即ち理島か、八右智の母だ。
 加佐名によると娼婦は裁縫が得意だから、どちらでも刺繍は成せる。どちらであっても娘の居場所を母に教えてやりたかったのだ。知られぬ影に、恵みの底に光景を託して。
 菱呂は祭場を手前に家人と別れた。
 その回廊の最後の曲がり角に、理島が立っていた。
「紀流古(きるこ)と申します」
 普段のたおやかな姿勢の中に明らかな強さを見せ、理島は唱えた。
「先代の霊女さまの、お名前にございます」
 理島はゆっくり背中を向け、幅のぎこちない歩みで奥に戻って行った。
 八右智が残る三役の間に、顔を下げた理島が入って来た。丸座布団に座ることもなく、八右智を正面にした壁際すれすれでひざまずく。
「あの少年ならば、嘘はつけないだろうな」
 彼は腕組みを解き、自らの手を見下ろした。棒術で鍛えていた手のひらは指の付け根に幾つものまめがふくれ、親指の根元が大きく盛り上がっている。
「防人は昔から、善き者が多いという。修練の末に一番の使い手となるのは、それに耐える気力が宿っているからだ。無論、全員ではないが……」
 そして己の手を固く握り締めた。
 理島は答えず頷かず、ただ八右智を見つめていた。

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