その日の空は、よく晴れていた。
視界の点々に白い雲が丸まっているものの、日差しも雲に遮られることなくそこかしこに届いていた。
日が稜線から上がり、朝焼けの帯が消えた頃、菱呂の正面には御山の姿があった。
左手側には、洞穴のあった崖。それを伝って歩き、背の高い森が途切れれば、御山が目の前に迫っていた。今いる場所は御山の坂となだらかな丘陵の、境目だった。
嘆きはしない。
「そういう場所だったのか」という感想だけだ。
行き止まりなら、戻り、里を突っ切ってでも別の道を探るだけだ。
伊由古を気遣いながら斜面を登り、やがて土は完全に灰色の石と化し、御山に入っていく。
すると、朝日を真正面に受ける左の方向から、斜めに下ってくる影が現れた。
「――八右智さん」
こちらへ歩いてくる人に、菱呂はその名を投げた。
現れた八右智は菱呂ではなく、もっと後ろの人影を見ている。
「まぶしがらなかったか」
いぶかしがる菱呂の前で、八右智は天を仰いだ。
「伊由古はまぶしがらなかったかと聞いている。晴れた空、陽の光、泉の水面、それから――」
彼はまっすぐに、空色の瞳を指さした。
「君の瞳を」
菱呂はじっくりと息を飲み込んだ。一度、まぶたを閉じた。八右智は彼女を「伊由古さま」と呼ばなかった。しかし彼が伊由古を呼ぶなら、「伊由古」そのままの方が、はるかにしっくり感じられる。
本当のことは全て、とても当たり前に存在している。
菱呂は再び目を開けた。
また一つの当たり前として、ただ燦然と澄み切った空がある。
「……水は、まぶしがりました。光の当たった水を見た時は苦しがりました。でも僕の目や空の色は平気なようでした。珍しがったとは思いますが……それだけです」
「やはりな。伊由古は、先代の霊女より目がよく見えている」
八右智はまったく平坦に告げた。
「今さら隠し立てするまでもなく、君も悟っただろう。伊由古も先代霊女も、本当に何も知らないことはない。ある程度は躾けられてきた。先代霊女を育て躾けた者は、私の亡くなった母だ。母が先代霊女を躾けるよう命ぜられた時、それはすでに三歳になっていた。一からものを見て、色を知るには、遅すぎたのだろう。先代霊女は今でも、見えきれない色が多い」
彼は額に手をかざし、空を仰いだ。
「先代の霊女。彼女はこの空が何色なのか、君の瞳が何色であるのか、分からないのだよ。白より白い、まぶしいものだとしかな。伊由古も同じく感じているだろうが、全く同じでもない。伊由古は生れた時から言葉を教えられ、物を見ていた。一方で先代霊女と逆に、躾けが分かる程度の世話しかされなかった。慣れない色には目がくらむこともあっただろう」
そして菱呂に向き直り、軽く頭を下げた。
「先代霊女の数々の非礼を、私が代わりに詫びよう。彼女には君の目元が、白っぽくかすんでしまうのだ。ただでさえまぶしい水が君の顔につけば、目がくらむというんだ」
「八右智さん。あなたは……ご自分が何を言っているか、おわかりなんですか」
菱呂は震えていた。目の前の男はすでに、真実を認めきっている。
しかしいざ、自ら本当を口にしようとすれば、あまりにも重くて体の全てがおののいていた。
「先代霊女の紀流古さんが、理島さんということ。祀りで火和湖に身を投げず、今日まで生きていること。理島さん、が……伊由古の、母親だと。全て認めるのですか」