天の仔  第8章 − 1回


 森を進み続け、日が傾きかけた頃、山の斜面に洞穴が見つかった。奥は狭く、すぐ突き当たりに達した。適度に湿り気があり、あたたかさも感じさせてくれる。そのわけは水脈とぶつかっているからで、洞穴を出てすぐの所に幾筋も清水が流れていた。
 菱呂は伊由古を、暗い洞穴の壁にもたれかけさせた。
「ごめんよ、疲れたでしょう。ゆっくり休んで」
 話しかけても、伊由古は小屋に居た時と同じ格好で座っているだけだ。
「いま、あたたかくするね。おなかも空いたでしょう」
 懐に潜ませていた包みを開ければ、火打石や紐や、ひと組だけだが小さな椀とさじも入っている。自分だけならさじまでは要らなかったから、念頭にはやはり伊由古があった。
 火を起こして薪を燃やすとほのかに明るい。伊由古の真っ白な衣服も赤茶色に照らされる。菱呂の瞳は夕焼けになり、髪は木肌の色に染まった。
 と、何の前触れもなく、伊由古が火に手を伸ばした。
「うっわわ! あぶない!」
 菱呂は慌てて彼女を引き離した。ゆったりした服の裾に危うく火が付きそうだった。
「寒いなら、これにくるまって。あたたかいよ」
 白い衣を被せてやった。これも凍えさせない為に持って来た。
「どうかな」
 どんなに尋ねても伊由古は口を開かず、菱呂は遂に肩を落とした。
 彼女には出せる言葉が無い。
 今までの姿からは、絶対に、形にできない声があると感じられるのに。
「……駄目だ。こんなことでくじけてちゃ駄目だ」
 あんなに大胆で、思い返すと恥ずかしいくらいの口上も述べてさらったのだ。死なせないというのは、自分が理島の代わりになって彼女を世話したいという意味ではない。
 伊由古に、伊由古として、生きて欲しい。
 殺させないだけではなく、どうしてこれほど「生きてほしい」と望むのかは、自分でもわからない。わからないからこそ、この想いを置き去りにはできない。
 菱呂は拳に気合を固めると、伊由古の真正面に膝をついた。
「僕は、菱呂。君は、伊由古。わかるかな。皆が君を伊由古って呼ぶから、君がこの響きを知らないとは思えないんだ」
 そしてまだ冷たい指で、伊由古の頬を出し抜けに包んだ。
「あー……あ、い……あ」
 伊由古は少し嫌がる風に声を出す。
 その頬を指先でつまみ、くにっと左右にひっぱる。
「伊由古のい。いー」
「いー」
 頬を「い」の形にしてやると、伊由古はその通り言ってくれた。
「やっ……た! うん、やっぱり君は、話し方を知らないだけなんだよね」
 菱呂は続けて、頬を少し抑えつける。
「伊由古のゆ。ゆー」
「ぃう」
「……なんか違うなぁ。まあ、すぐには出来ないよね。じゃあ次、伊由古のこ。こー」
「おあー」
 ますます違う気がした。
 これだって伊由古が言おうとして言っているのではなく、頬を挟まれて出た呻き声を、こちらが勝手な形へ変えているに過ぎない。
「君は、物に名前があるっていうことを知らないのかな」
「うあーいー」
 頬を上下左右にさすっていると、伊由古はでたらめな音を出し続ける。
「うー……ん、ということは、物に名前があるっていうのを知るのと、声の出し方を覚えるっていう二つが必要なのかなあ……むずかしいなあ。いー……い、い、……いは、こうだな。あ、でも、いは言えてるんだ。ゆは……ゆ、ゆ、……うん、こんな感じかぁ。こ、こ、こ……ん? こ、ゆ、こ、ゆ、ゆ、ここ、ゆ……ことゆは似てるかなあ、どうしよう」
 菱呂は一度、伊由古から手を離した。
「ごめんよ、他に思い付かないから……ちょっと、失礼するね」
 あごを手のひらで包み、彼女の唇をすぼませると、右手の人差し指を口の中に差し入れた。
「ぅー……う、ぁ、ぁ、いー、ぅー」
 さすがに嫌そうで、伊由古は細切れに抗った。
 口の中は熱く、濡れてすべった。菱呂は舌の先を探し当てると、傷付けないようにそっと下の歯の後ろへ導く。細い体の割に舌は肉厚で、たっぷりやわらかい。
 伊由古の声に変化が起きた。
「うー、う、ぷー、む、うー、ぷー、うー」
「あっ……そうそう、それそれ! 近くなったよ! でも、うじゃなくてむじゃなくてぷじゃなくて、ゆ! ゆゆゆゆゆ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆーっ!」
「ううううう……う……」