影を後ろに長く引きずりながら、菱呂は我が家に辿り着いた。
丸い木戸を開けると、土間には穀物、乾物、香辛料の袋が山と積まれていた。
「なっ……なんですか、これは」
思わず驚嘆したら、土間より一段上がった居間から父親が声を返した。
「お前のおかげさね、こぉのばか息子めが!」
父は極めて上機嫌だった。卓に手を突き、片手に酒入れのひょうたんをひっかけ、右脚を引きずりながら土間までやって来て、終いに酒臭い息を息子の顔にかけた。
「お前が火和湖防人なんぞに選ばれちまったから、ご祝儀の嵐よ! まったく菱呂さまさまめ、生まれてこのかた親孝行したなんざ初めてじゃねえか。はっはー……」
次は土間にしつらえたかまどから、女が菱呂の前にかしずいた。
彼女が腰を落とすと、まとめた髪のおくれ毛が艶めく影を作った。楽にした下衣の合わせ目から、胸のふくらみがちらりとのぞく。
だらしないが、あくまで美しい。
「お帰りなさいませ、菱呂さん。この度のご活躍、謹んでお慶び申し上げます」
女――加佐名(かさな)は顔を上げ、眼差しに菱呂を捉えた。彼女の口角はいつも上がっていて、微笑んでいる風に見せる。もの思いをするような瞼と眉にも隙がある。
「頂いた中に、米がありました。今夜は菱呂さまのお祝にと、米を炊いております」
「そんなに貴重なものまで……あっ、母上、ここはもう僕にお任せください」
菱呂は加佐名の腹を見ていた。胸の下で縛った下衣は、そこから更に大きくふくらんでいる。彼女はもう、臨月だ。
「そのとおりだ、やらせておけ。あいつがやりたいと言っておるんだ」
父は酒入れを振り回し、妻を呼び戻した。
「もうすぐ菱呂にも弟が生まれるんだ。ああ、そうだ、よっく働く良い息子に決まってる! あいつもじきに我が家の家長さまだ、母にはよぉく孝行せんとなぁ」
父が盃を突き出したので、脇に座った加佐名が酌をした。
「ずいぶん、お喜びでございますね」
「あたりめえよ。子供さえ生まれちまえば、また……なーあ?」
男の目が胸から下腹部まで舐め回すように動いたので、女は「ほほ」と笑って身をよじった。「菱呂さんの前ですわ」と、小声で。
父は加佐名へ諭し聞かすように、鍋を持つ息子へ半ば醒めた目を送った。
「祭事家ってのはな、寡婦とかみなしごとかをな、家人に上げてやってるんさね。わしぁ自分の息子なんぞに限って、里一番に棒が上手いたぁ信じてねえからな。勝てる組み合わせにさせて、見石と八百長やらかして、憐れな菱呂を防人さまにしてやったんじゃねえのかい」
「だとしたら、有難いことですね」
菱呂は背中でなんとなく応じ、淡々と夕食の準備をした。米が焚けたからお椀に盛る。三つ分と、それから柄の入った上品な小鉢にも一つ。
「おい、そっちの小鉢はどうすんだ。もうおかわりを用意してんのか」
「せっかくの米ですから、母さまにお供えしようと思います」
菱呂が答えると、父子の間で優しいまなざしが交わされた。
次の息を吸った時にはもう、父は酒入れを息子に投げ付けていた。
「寝ぼけたことぬかしてんじゃねえ!」
菱呂は避け切れない――ふりをした。酒が顔や胸にかかる。
「お前は母を侮辱する気か。わしの家に母は加佐名だけだ!」
父は左手で息子の胸倉を掴み、胸や頭を殴った。びっこを引く右脚振り上げて、膝で胴を蹴る。菱呂は手で頭をかばい、身をかがめ、動けない――ふりをする。
衣のすそから覗く、衰えた父の腕。衣ごしの膝から感じる痩せた脚。
「父さん、お許し下さい」
堪え切れない――というふりの声音で、菱呂は土間に膝をついた。
「ちっ……」、酒臭いつばがひれふした息子の髪にかかった。
「飯が食いたきゃ畑に行って、食い扶持たがやして来い!」
「はい。分かりました、父さん」
菱呂は腰を折り、土間の壁に立てた畑道具を背負い、ためらわずに家を出た。
外は星が光って月も丸い。
家々から漏れる明かりで、足元なら夜目は効いた。
いつもの夜に、いつものことだった。これから数刻、父が酒で眠りにつくまで畑に居れば良い。戸は加佐名が開けておいてくれる筈だから、音を立てずに部屋へ戻ろう。夕食は畑で葉か野菜でもかじって、部屋に隠した乾物を一枚食べれば十分だ。
菱呂は道具を担いで夜道を往った。足音を不審がったのか、ある家が窓を覗いたが、菱呂と判るなり汚いものでも見るように顔を背けた。
いや、本当に汚いものとして見ていた。