菱呂の毎日が過ぎた。
朝は祭事家に向かい、霊女に挨拶をする。
昼は畑を耕し、山菜を摘み、心ばかり斗々富貴へお裾分けする。気が向いたらあつものを作ってもらったりする。
夜は夕食を用意し、父が静かになったのを見届けると、外に出て棒の稽古をする。
「――イアアアアッ」
気合一閃、茂った木に棒を突き刺した。
まばたきの後、枝から一枚の葉がひらりと落ちてくる。狙い通り、たった一枚だけ。
菱呂が木にもたれて休んでいると、家が集まる方から灯りが近付いてきた。
「あっ、見石!」
大きく手を振った。灯りが遠くてもすぐ分かるのは、今宵の月が明るく丸いからだ。
明日が満月――祀りの締めくくりである婚儀の日だった。
「ありがとう、来てくれて」
「そりゃお前は一番の友だ、頼みは断らんが、いいのか? 明日、早いんじゃないのか」
「寝付かれなくてね。でも僕だけだとどうにも動き切れなくて」
「俺もしばらくやってないからな。いい機会だ」
本当に、よく来てくれた――菱呂は胸の中で、見石にありったけの礼をした。
祭事家の裏で会って以来、見石はさりげなく何事もなかったように、必死に日々の暮らしへ戻っていくようだった。菱呂と今まで通り接するのも、そのためだろう。
友の想像もできない痛みに想いを馳せればこそ、菱呂は見石とこうして会えたことに感謝しか覚えない。
なんて、野をあたためる夏風のような友だろう、と。
見石は灯りを置き、脱いだ上衣を木の枝に引っ掛けた。両肩を回し、肘を伸ばし、腰を左右にひねってから棒を構える。
「よし、いくぞ!」
彼は軽快な合図と共に、棒を振り下ろして来た。
菱呂は両腕に持った棒の中央で、見石の棒を受け止めた。見石の動きはいつもより遅く棒は軽い。
友は少し痩せたと、菱呂は棒で感じた。彼の大きな体全てで繰り出す棒を受ければ、さすがにひじに痺れが走るというのに、慣れたその感覚がやって来なかった。
一、二、三、四、見石は一定の間隔で手早く突いてくる。菱呂は後ろに半歩ずつ下がりながら、彼よりも早く避けていく。
――見石。こんなに焦って向かったら良くないよ。
次の一手で、見石の棒が右腕をかすめた。
――こんな深くまで入り込んではいけない。
菱呂が体を左にそらすと、眼前を、見石の手首から肩が通り過ぎていった。菱呂は見石の体の後ろへ伸びている、その棒の下端を跳ね上げた。
見石は前へつんのめり、菱呂はむき出しになった彼の脇腹を打った。
まばたきをしたら、目の前の地面に友が転がっていた。
「大丈夫だった? 怪我はしていない?」
菱呂は棒を置いて手を貸した。やはり友の心はまだ大きく痛んでいるのだ。でなければ焦りも隙も簡単に見せる筈がない。転がした時もやけに軽かった。
しかし起き上がった見石は、出し抜けに菱呂の頬をつねった。
「そんな顔で見るな」
「いたたっ、なに……」
「お前、俺が疲れてて、棒も不調だとか思っているんだろ」
言葉に詰まった菱呂に、見石は「やはりな」と笑った。
「冗談じゃない。俺が弱ったんじゃなく、お前の調子が馬鹿みたいに良かっただけだ。動きは速い、見切りは正確。俺はいつも通り動いていた。そこまでやわじゃあない」
「そうなの?」
「今以上、お前を褒めてやるために、嘘をつくほどお人好じゃない。お前じゃあるまい」
菱呂は不思議になって、己の手を見下ろす。
「僕なんて、ただの意気地なしなのに」
「はあ?」
見石は思わず品の無い声で尋ね返した。
菱呂が呆れるほど朗らかに微笑んでいたからだ。