天の仔  第13章 − 9回


 勢いよく傾いた壺の口から、波が岸へ当たるように油があふれた。油は菱呂の胸や脚をたちまち濡らしていく。足元にも油がじわりと広がっていく。宙を飛ぶ内にこぼれた油も、そこかしこに丸く垂れ、または細長い軌跡を地面に引いている。
「見石、伊由古をお願い。伊由古ももう油を浴びてしまってるんだ」
 菱呂は伊由古の体を、見石の方へ押しつけた。それから「貸して」と一言、唖然とする見石の手から、友の棒を引き抜いた。
 それとほぼ同時に、火のついた矢が、男達から菱呂めがけて飛んできた。
 こうなることは分かっていたから、菱呂はすぐに棒で矢をはじいた。足元に落としたら油に引火するだけだから、矢は全て谷の方へ。道幅が狭いから、相手も一度に一人しか矢を放てない。 見石の棒は菱呂のものより大分、長い。だから借りた。
 五本か六本、弾いた時、菱呂の後ろから見石の声がした。
「っおい、だめだ、やめてくれ」
 見石の声は慌てている。砂粒の地面を繰り返し踏む音がする。
 足音の中から、伊由古のか細い声が聞こえてくる。
「……あー、あぁーっ」
 菱呂の前からは、まだ矢が飛んでくる。いつ当たるかと待ち構える一陀羅もいる。
 危ないと分かっていても菱呂は、後ろを向いてしまった。
 伊由古が長い衣を引きずり、菱呂へ向けてうんと手を伸ばしている。小さな体を見石が抱き止めている。
「ひ……ち、ぉ」
 伊由古は求めていたものが見えたからか、その名を呼んだ。
 彼女の何ともつかない瞳に、胸の奥からやわらかいものが広がり、菱呂は一時、我を忘れた。
 ――ああ……言葉を、知らないだけだ。伊由古は見ている。
 水に育まれる草、草を彩る花、花が宿した実、実を抱いた鳥、鳥が飛ぶ空、空が色を与えた水――
「馬……っ鹿、菱呂ぉ!」
 見石が大きな体いっぱいで叫んだ。菱呂が再び男達を向くと、火のついた矢がもう眼前まで迫って来ていた。
 菱呂は咄嗟に棒を振り回した。矢は間一髪ではねのけられ、体には当たらなかった。
 しかし谷に落とすことは敵わず、矢は油まみれの地面を目がけて落ちていく。
 もし矢が地に触れれば、火はたちまち油を伝って菱呂の体を包むだろう。
 菱呂のまぶたが、まばたきをしようと動いた。
 目に映る光景の中に、伊由古がいる。見石がいる。遠くには八右智と理島の走る姿もある。反対側には一陀羅と、里の男達がいる。上には空、下には谷、前には森が広がっている。
 そして里の姿は、どこにも見えない。
 御山の裏側は里と接していない。
 ただそれだけのことだが、今ここで己の目に里が入らないこと――里から菱呂という者を臨めないことが、ひとつの答えなのではないかと思えた。
『あんたは、こんな小さな里だけの子じゃない』。
 斗々富貴の言葉が耳の奥でよみがえる。
 里の子ではないから、この身が里にあるだけで、里はいつまでも痛み続けた。
 菱呂の目がしばたたかれ、また開いた。時間にすれば、ほんの一瞬。
 矢は今まさに、油にまみれた地面に着こうとする寸前。
 菱呂は地面を蹴った。
 道幅は狭いから、横に二、三歩も行けば――崖から谷へと落ちる。
 しかし迷いなく、谷を目がけてそのまま宙に飛んだ。
 同時に、菱呂が立っていた場所が高い火に包まれた。油の染み込んだ大地も砂も岩肌も、全てが火の壁となって、見石と一陀羅達の間を遮った。
 ――死ぬためじゃない。生きるためだ。生きつづけるためだ。
「また、会おう!」
 空のように笑った菱呂の体は、もう崖下へ真っさかさまに落ち始めた。
「……菱呂おおおおおおおおおおっ」
 追い付いた見石が伸ばした手は、菱呂の体にも棒にも届かない。
 もう菱呂の瞳には映らないが、遠くから伊由古の声が聞こえた。
「ひちお」
 体は落ちているのに、菱呂は怖くもなんともなかった。遠ざかっていく崖の上で見石が身を乗り出して叫んでいるのが、おかしい程ゆっくり見えている。
 ――誰からも望まれない僕でも、伊由古をつなぎとめられて嬉しいんだ。
 谷側の背中は湿ってひんやりして、日を受けた顔はあたたかく乾いていた。この視界いっぱいに広がる空と山と日と水。
 なんて、綺麗なんだろう。
 ねえ、伊由古。これからは、こんなまぶしいものだけを見て生きれば良いんだよ。
 僕はどこにいてもきっと、君の見る空になれるだろう。僕の髪は日で、瞳は空だって。僕は天の子だと、君のおばあさまが教えてくれたから――
 そして菱呂は、深い濁流の谷に沈んだ。