理島は防人に声をかける隙もないまま、見送るだけ見送って小屋に戻った。
すると丁度、八右智が伊由古を抱いて寝台に運んでいるところだった。
「伊由古は、いかがでございますか」
「よく眠っている。薬が効いているのだな」
理島は溜息をつくと、髪で隠れていない右側の額を手で抑えた。
「痛み止めのお薬の蓄えが危ないのです。柳と砂糖はありますが、他の材料が」
「春先は草が少ないからな。いつもなら我慢させられるが、今は……菱呂くんもいる」
「伊由古の体は、このありさまです。強くはございません。……抱かれること、それだけでもう、痛みにしかならないのです」
彼女は目をきつくつぶり、同じくらい強く自分の体を抱いた。
「眠れるはずの夜には眠れず。おなかは痛い痛いと、苦しむのです」
八右智は答えることもなく、ただ伊由古を寝台に寝かせた。
かろうじて肉のついている頬にかかった髪を、繰り返し丁寧に枕へ除けていった。
二人が小屋から出てくると、廊下に一陀羅が待っていた。
理島はすぐさま八右智の後ろに下がり、床に膝をつけた。八右智も深く腰を折る。
「どうなっているんだね」
「眠っておられます。しばらくはこのご様子かと」
「よろしい。くれぐれもあの防人に余計な姿を見させるな」
一陀羅は小屋を仰いだ後、八右智を強く睨み据えた。
「もう月の一巡りも無い。それでお前もわたしも楽になる。お前の母のように、苦労のし通しで死にたくはなかろう。今度こそ、お前で撒いた種の始末をつけるのだ」
「承知しております。父上」
「お前の我儘もこれで区切りだ。祀りが終わったら、いい加減に嫁を取れ」
父の後姿が廊下の遠くに去ってから、息子も小屋を向いた。
「理島。もう頭を上げて良い」
辺りはすっかり静かになっている。
鳥の声と、葉を僅かに揺らす風の音だけで、日差しは他に何も伝えない。
小屋を見つめる理島の瞳から涙がこぼれた。
八右智は彼女の左の髪を横に分けた。皮膚を何重にもひっかいた筋が幾本も、赤茶色に盛り上がっている。すりむいた皮の跡と混ざり合い、紫色の染みが広がっている。
彼はその傷にまみれた頬の、涙が流れているところに唇を触れさせた。
「もう、じきにだ」
今にも嗚咽の漏れそうな冷えた唇を、塞ぐように口づけた。
菱呂は一人でこの屋敷から出られないから、三役の間に座り込んでいた。
座布団でもどこでもない床の上に、姿勢を正す事もなく、まるで転がっていた。
ああ――でも、今のこの僕の姿が全てだ。何がどうなることもないんだ。
ここは特別な場所。今更あの娘が実父に犯されていたところで、そんなことも起こり得る場所だ。もはや終わりゆく日々の、最後の置き土産ほどの話だ。
扉が開いた。
入って来たのは八右智で、腕に袋を提げている。
彼はかすんだ眼差しの菱呂を見つめ、強く眉を寄せて頭を下げた。
「この度は、ご愁傷様だった」
「え、なにが」
「妹君のことだが……いや、すまない。君が呆けてしまうのも当然だ」
菱呂は答えられなかった。
何が気の毒なのか本当に分からなかった。
妹という存在も、もうどこかで忘れかけていた。
だってもう居ないものを気に病んでも、仕方がないと。
八右智は膝の隣に置いた袋を示した。
「気持ち程度だが見舞いだ。母君の心中は察するにあまりあるが、食を断ってしまっては自らが危ない。しかもご出産の直後だ、精のつくものを食べさせてあげなさい」
「あの」とまで言いかけて、菱呂は続きが出なかった。それは「何を言ってるんですか」という言葉で、あまりに失礼だったからだ。
この人は、母を気の毒がっている。
今朝はもう、微笑んでいた人なのに。
妹は、母自らの手で――
そこまで言葉が頭に生まれたか生まれないかの内に、菱呂は頭を下げていた。
「はい。ありがとうございます」
想いは伴っていなかった。
八右智は咳払いをし、慎重に探りながら切り出した。
「菱呂くん。君は、ご両親から言付かっていることはないかい」
「いいえ、何もありません」
「妹君の葬儀のことなどは、何か聞いていないかい」
「あ……いいえ」
「分かってほしい。我が家への御礼が目的とか、そういうことではないのだ」
「存じております。ただ……すみません、そういう父なのです。仕方ないのです」
菱呂は鈍く立ち上がった。
「お心遣い、ありがとうございました。失礼いたします」
☆ ☆ ☆