菱呂はとぼとぼと屋敷を出た。日はまだ十分に高く、これからでも畑に出られる。
里の日々は続いていく。種を植え、葉を茂らせ、実を成し、また種を頂く。雪が溶ければ川が流れ、落ち葉が舞えば土が肥える。さして裕福ではなく、娯楽など無いが、満足に生きていくことはできる。だから日々、実感する。御山に生かされている、が。
家々の一角に、騒がしい人だかりが出来ていた。囲っているのは見石の家だ。
「見石、僕だ。菱呂だ」
告げたい言葉も頭になかったが、今は二人に会いたくてたまらなくて叫んだ。
すぐに音もなく、戸が開かれた。
戸の奥には見石が影となって立っていた。
菱呂が家に足を踏み入れた途端、甘い香り鼻をついた。そこかしこに果物の袋、菓子の山。米や小豆の袋。更に、誰が摘んできたものか、花のかごまで置いてある。
居間の中央には、萎んだほおずきのように背を丸めた摩耶女がいた。
「何をしにきた。防人さま」
見石が煙に似た声を吐いた。
隣に立つ見石が、菱呂にはいつもより一回りも二回りも大きく見えた。それだけ彼の体が影に溶け込み、りんかくが黒くかすみ、この世の者ではなく感じさせた。
「憐れみにきたのか」
見石は笑っていないのに、まるで笑っていた。
「次の霊女さまを見にきたのなら、残念だったな。もう侍人さまが連れて行ったよ」
「見石、聞いてくれ。僕は」
「何を聞けって言うんだ!」
彼は、己に触れようとした菱呂の手を渾身の力で振りはらった。
「そうだとも、これは名誉なことだ。霊女さまの母になるのは、里に生まれた女で一番の誉れだ。俺だって知ってるし分かってる。侍人も何度も何度もそう言い残していった。でもな、でもなぁ……」
見石の拳が菱呂に突き付けられ、その肩を掴んだ。
「あの子は、俺達の娘なんだよ……!」
部屋の奥では摩耶女が泣いていた。もう泣き疲れたという様子で、声も出ないのに、それでもずっと泣き続けていた。
不意に、妙に軽い声が見石から漏れた。
「なあ、菱呂。教えてくれ。霊女さまは、どんな暮らしを送ってるんだ?」
声の軽さに逆らって、菱呂の肩を掴む手はどんどん食い込んでいく。
「何を食べる。どんなものを着る。書を読んだり裁縫したりするのか。誰がどんな風に育てるんだ。お前、知ってるんだろう? お前は俺の友だったんじゃないのか!」
見石の頬に涙が伝った。目の白い部分には、血の筋が何本も折り重なって浮かんでいる。
「教えてくれよ……俺達が次に、あの子に会えるのは……」
菱呂は友の告げたい言葉がわかり、震えた。
その怯えを見逃さず、見石は叫んだ。
「十六年後、湖に身を捧げる祀りの朝だけなんだよ!」
「やめてえええっ」
声を張り上げたのは摩耶女だった。その喉はとうにかすれ、やわらかかった響きとは遠く、高い音と低い音が混ざり合った哀しいほど滑稽な声になっていた。
摩耶女は座っているのに、叫んだだけで体がふらついた。
夜に子を生んだばかりで、その子を失ったばかりの姿だった。
「帰ってくれ」と背中に聞いた時には、菱呂はもう自ら飛び出していた。
菱呂は里の外れで固い土に膝を突き、正面にした御山に頭を垂れた。
「湖霊さま。僕にはなにができるのですか」
友に霊女の様子など告げられる筈がない。言葉を知らず、白い饅頭のみ食し、白い衣だけを身に付け、生涯をあの部屋で過ごすとは。
あまつさえ、侍人に犯されているなんて。
防人の責などではない。
二人に泣いてほしくないから、決して明かせなかった。
御山の高みに昇った日が、里を照らしていた。数百年間、この営みを続けてきた里を照らす日だった。
『この葛藤を抱えた人間が、今までいなかったと思うか』。
ふっと、八右智の言葉が思い出された。
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