だからと言って、やはり、日々は変わらない。
心持ちが変わったところで、菱呂という一人の人間の内のことだ。
陽は全くもって昇るし、火和湖防人の務めは果たさなければいけない。
里は火和湖に守られている。過去の霊女に意味が無かったなんて思わない。
子を生んだ霊女でも、犯されていた霊女だろうとも、彼女達の命に穢れは無い。今日この時まで御山が怒っていないのが何よりの証拠だ。たとえ菱呂ひとりが何を思ったところで、御山が許している以上、そんな祀りや霊女でも間違いではない。
だから菱呂は今日も、控えの間で白い被り衣を身に着けている。
「今日は伊由古さまのお加減は宜しいのですか」
「はい……それが、あの」
菱呂は歯切れの悪い理島に嫌な予感を覚えつつ、霊女の居室に入った。
今朝はもう、様子がおかしいどころではなかった。
「うー……う、う……あー……あー」
声は細いが、確かに呻きである。
伊由古は座の背もたれに頭をあずけ、身をよじっている。
腹を丸めて口を開け、眉もわずかに寄せている。人形のように精気の無い顔が、今朝は脂汗すらかいている。よほど辛いのかぐねぐねと動いている、悶えている。
「理島さんっ? 伊由古さま、苦しんでるじゃないですか!」
「お願い致します、早くお務めをなさってください」
菱呂は「それどころじゃない」と言いかけ、口をつぐみ、素早く頭を下げた。
「――ご機嫌うるわしゅう存じます」
何が麗しいものか。
さっさと頭を上げると、怒鳴るほどの勢いで尋ねた。
「薬はないのですか。僕が用意できるかもしれません」
「その……痛み止めが切れてしまいまして」
「柳はどうしましたか。痛み止めには柳の汁でしょう?」
「柳は苦いので、伊由古さまはそのままでは召し上がれないのです。普段は砂糖をいっぱいに混ぜたものを飲んで頂くのですが……備えが切れたのでございます」
「じゃあ山で、草を取って来てください」
菱呂は咄嗟に声を張り上げていた。
とにかく目の前で苦しんでいる人を救わなければと、霊女だか男か女か何だかは関係ないと、ただ人として叫んでいた。
「シモツケにそっくりの草があります。根を煎じると、柳ほどではないですが効きます。苦くもありません。僕は山菜採りで山に入った時、何度も助けられました」
「は、はい、すぐ家人に伝えてまいります」
理島は白い衣の裾を持ち上げ、急いで部屋から出て行った。走ることの苦手な足がもつれていたが、焦りは本物だった。
「動く」という事の意味も知らない伊由古も、今朝は自ら姿勢を変えている。
痛みは知っている。
「伊由古さま、寝台にいきましょう」
菱呂は彼女の前に回り、脇に両腕を入れて持ち上げようとした。しかし亀さながらに丸くなった相手は格好を変えたがらない。
「伊由古さま、楽になりますから」
「うー、うー、うーっ」
「お願いです、伊由古さま」
「うあーっ、あー」
伊由古は腹を抱きかかえたまま石となって、びくともしない。
苛立ちと言うより困ってしまって、菱呂はつい声を荒げた。
「伊由古さま!」
たちまち伊由古は、頑なに腹を覆っていた手で頭を抱えた。
「うぅっ……」
伊由古は痛みとは明らかに違う震えで、歯をかたかた鳴らした。
菱呂は恐る恐る、己の格好を見やった。
今、彼女の頭上に、両手をさまよわせていた。
以前にこうなった時と、同じ。
伊由古の名を大声で呼び、頭の上に手をやっている。
――やはり……こうされるのが、拳をふるわれるのが……毎日なのか。
「伊由古さま……」
呼ぶと、伊由古はますます小さくなった。
菱呂は彼女の肩の付け根を出来得るだけ優しく引っぱり、寝台へ半ば引きずっていった。寝かせてやった頃には、妙な怯えだけは消えていた。顔をゆがめた伊由古を見つめると皮肉なものだが、この苦しんでいる表情こそ人らしい血が通っている。
そう言えば彼女は斗々富貴の孫娘である。
似ているかは分からないが、作りの良さだけは血筋だ。
子と孫、母娘二代の霊女だなんて知ったら、斗々富貴はどれほど泣いてしまうだろう。
まず霊女の母娘なんて有り得ないのだから。