天の仔  第10章 − 1回


 菱呂と伊由古は御山を下りきっていた。今や道は次の上りになっている。左手の方向には幾重にも段々になった崖がそびえ、木々が山肌を覆っている。木は非常に背が高く、里の近くでは見ないものばかりだ。
 すでに次の山に出たのだと、菱呂は信じて進むしかなかった。
「この辺りで休もうか」
 菱呂は伊由古の手を引き、崖に開いた洞穴に入った。中は渇きがちだった外と比べ、程良く湿っている。すぐ近くには清水も湧いている。
「疲れてないかな。それとも、おなかすいた?」
「うー」
 伊由古は洞穴の床に座らされると、右へ左へ視線を泳がせた。
 祀りから丸五日が過ぎ、伊由古は変化を現している。話しかけると、理解しているかはさておき返事がある。周囲のものに興味を持つ素振りがある。
「伊由古がおなかすいてないなら、菱呂は、もう少し後でいいかな」
「い……い、お。ひ、い、ちぉ」
「うん。ひしろ。伊由古のとなりにいるよ」
「いう……お。い……ゅ」
 菱呂は伊由古の隣に座り、髪を撫でてやった。
 伊由古の何よりの変化は、名前を言いかけていることだ。菱呂自身、己を敢えて「菱呂」と呼ぶようになったのもある。名前は言葉だ、彼女は意味を見出そうとしている。
 しかし良い兆しではあるが、変わるのが早すぎる。
 もしかしたら伊由古は元々、言葉を知っていたのかもしれない。そこを奴隷とされて忘れたのではないだろうか。すると用が足せることも、男に仕える術を身に付けられたのもうなずける。
「いいや……もう」
 菱呂は大きく伸びをして、残酷な詮索を追い出した。
 今ここに伊由古が生きて、人としての道を取り戻そうとしているのだから、他には何もいらない。
 今は、生き直そうとしている伊由古の全てが嬉しいんだ。
 菱呂は少しわかりかけていた。伊由古も己も、まるで死にながら生きてきた者同士だった。
 ならば伊由古の命がどんどん鮮やかになっていく様は、まるで希望だ。
 だったらまだ生きられる。何があっても生きていける。
「いち、お」
 その心を感じ取ったのか偶然か、伊由古が呼んだ。
「ううん、なんでもない」
 菱呂は距離を詰めて肩を抱いた。伊由古も自然にもたれかかってくる。
「ねえ、伊由古」
「いう、お」
「なんでもない」
「ぃちお」
「呼んだだけだよ」
「ぅ」
「菱呂が呼んでみたくなっただけ」
「い……ちょ」
 伊由古の鼓動が肩から腕に伝わる。菱呂は音に間をそろえ、彼女の肩を小さく優しくさすっている。伊由古も合わせて、頷くような首を傾げるようなふりをする。
 守ってやってるとか、大それたことではない。
 ただ、すがられたあの手を突き離したらどうなるのだろうかと、恐れた。だから動いた。
 走ったあとに待っていたのは、震える命が芽吹いていく、これ程の喜びだ。
「伊由古。いーゆーこ」
「う……」
 ――僕は、何をやってるんだろうなぁ。
 無性におかしくなってきて、菱呂は吹き出した。伊由古が眼差しを向けて来る。
「ひ……ちょ。ぃちろ」
「いゆこ、いゆこ、いーゆこ」
「いぅこ。ぃちお」
「うん……。伊由古。菱呂」
 もう、どこにも行かなくていい。
 木々のささやきと、伊由古の息と、鳥の鳴く声と、伊由古の胸が刻む音と、水のせせらぎと、伊由古のぬくもりと、伊由古の命と、菱呂の命。
 どこでもいい。それだけでいい。
 ふと伊由古が体を傾け、菱呂の頬に触れた。菱呂は口付けてくる伊由古の体を優しく留めた。それでも彼女の長い髪が頬や肩に触れ、望み近づこうとすれば幾らでも成し得る。
「……こんなことはね、僕には、菱呂にはしなくていいんだよ」
 押し戻す代わりに、伊由古の頭を胸に抱いた。
 口付けて知るものは、きっと、欲にまみれた奴隷にさせられていた日々だ。
「菱呂はなにも望んでないんだ」
 このひとときがあれば、それでいい。どこにも行かなくていい。
 この洞窟に入って、十歩分までの距離。洞穴の入口から人の目で見えるだけの光景を、今この一時のまま切り取って、もうなににも邪魔されず動かず痛まず、ずっとずっとあたたかく包み込んでおけたらいいのに。
 留められた伊由古は、首をそらして空色の瞳を見上げた。
 菱呂はなるべくまばたきをせず、見つめてもらうために見つめ返した。
 伊由古が指を伸ばし、菱呂の目尻のきわに二本の指で触れた。
「ひちぉ」
「うん」
「ぃ……ちお」
「うん。伊由古」