休む見石に、一人の娘が近付いてきた。
気付いた彼もさわやかな笑みを見せる。
「悪いな摩耶女(まやめ)、このざまだ。師匠きどりが、弟子にはとっくに越されていたよ」
摩耶女という娘は、ころころした豆のような微笑みで返す。
「あなたが菱呂くんに勝てたことなんて、なかったでしょう」
見石は少しも気を悪くせず、上衣を脱いだ。上衣は体の中心で合わせる前開きの、袖を通すだけの簡素なものだ。その下は首まで覆う麻の下衣。袴は裾へ向けてゆるく広がっている。
菱呂の上衣は形が異なった。身ごろが互い違いに胸を覆い、左の身ごろを首の右下で留めている。腰は紐で縛り、丈は膝に近い。生地は厚く、色も深緑で濃い。加えて見石の靴は足の甲を出す浅いものだが、菱呂のそれはふくらはぎまであり、袴の裾を靴にしまっている。
花の咲く季節を迎えて尚、菱呂は冬のものを着ていた。寒がりではなく、薄い体を恥じて隠したいのだった。骨だけは少年のそれだが、体はめっきり肉がつかない。
見石が熱さで脱いだ上衣を、摩耶女は受け取ろうとしたが、
「いい。少しでも物は持たないでくれ」
彼は摩耶女の腹を瞳で愛でた。彼女の胴をすっぽり覆うゆるやかな上衣は、胸の下から腰までが前に丸くふくらんでいる。
菱呂より四つ年上の摩耶女に、彼の背が追いついた、昨年の春。
菱呂より五つ年上で、頭一つ背の高い見石が、摩耶女と婚儀を上げた。
幼馴染の二人が結ばれたことを里中が祝った。菱呂も、姉代わりと兄代わりの幸福を、里の誰よりも喜んだ自信があるほど喜んだ。間もなく、摩耶女が子を身ごもった時も。
しかし摩耶女はかつて菱呂の中で、淡いものにはすぎないが、女として彩られていた。
今は夫婦となった二人の後ろで、人垣が薪のように割れた。
奥から一人の男がやって来た。
彼の衣服は他の男と異なり、冬の衣に似てはいるが、上衣の裾は短く股倉を隠す程である。頭の低いところで一本に結んでいる長い髪も、彼が成人しても髪を切らない、普通の男とは区別すべき立場だと示している。更に白と黒のみに染められた衣服は、祭事を生業としている証だ。
白黒の服を着た髪の長い男は、菱呂の前で足を止めた。
「お互い、これまで何度も見かけているが、名乗り合うのは初めてだね。ご存知だろうが、私は八右智(やつうち)。火和湖侍人(ひわこのはべり)を務めている」
八右智は柔和に微笑み、両手を合わせて礼をした。穏やな目元が細められ、端正な唇が左右に伸びる。その表情で笑いじわが出ないから、彼はまだ若い。
「急ですまないが、早速、我が家まで来て欲しい。いいね――火和湖防人、菱呂」
菱呂は棒を縦に抱え、一礼で応えた。
そして八右智に着き、歩き出したと同時だった。
「――さすが、菱呂サマだな。なまっちろいくせに、あの見石を倒しやがった」
「恥晒しで淫遁な女の血だからよ。不気味な女のおぞましい血よ。あれが防人だなんて」
「あの目。髪。こうも近くで見りゃあ……ああ、気色悪い」
人々の声は菱呂の背骨に、くるぶしに、胃の腑に絡み付いていきた。「汚らわしい」「気持ち悪い」「不愉快」……文句の種類に果ては無い。気づいた見石が「おい!」と怒声を張り上げたが、声は止む気配すらなく、また菱呂も変わらず前を向いている。
見石、摩耶女、そして八右智も、里の誰もが黒っぽい瞳と髪を持つ中に一人。
麦の穂のようにきらめく黄金の髪を揺らし、透きとおった清流の水色の瞳で道をとらえ、菱呂は歩き続けた。
この里で生まれ、育ったのだから、仕方ないのだと。
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