天の仔  第12章 − 2回


 のちに父は一言、「呆れるほど美しい娘だったのだよ」と応じた。
「紀流古の母も、若い頃は評判の娘だった。それを射止めた男ともなれば、里でも指折りの美青年だ。まさに両親の良いところを受け継いだ娘よな、あれは」
 薄明りの灯った三役の間で、父は遠いところへ視線を投げた。
「少しばかり親心を出して知恵を与えてしまっても、仕方ないだろう」
「しかし……湖霊はお怒りにならないのですか。あのように俗世に触れさせてしまって」
「最後につじつまが合えば良いのだよ。お前が侍人の任を果たせば済むことだ」
 成り立ての侍人は「はい」と答えるしかなかった。
 八右智はそれから毎日、決まりに従い、紀流古の小屋へ赴いた。
「火和湖侍人、八右智にございます。本日も火和湖霊女紀流古さまにおかれましては、ご機嫌うるわしゅう存じます」
 口上を述べている間は、紀流古は座の中央にしっとり収まっている。その時は瞼をゆるく伏せ、口元に薄い笑みをたたえる。そこいらの若さがみなぎる少女と比べれば、とても十四の娘には醸し出せない妖艶さがある。
 しかしひとたび形式の時間が過ぎれば、別人の無邪気さを見せつけてくる。
「やつーちさま、きるこ、きのーよりはりがすすんだのですっ」
「紀流古は刺繍が好きだな」
「ぬの、ふくらむ。おもしろいのです」
 そんなよく分からない理由で、いつも針を動かしていた。
 それが「いつも」だと分かってしまうくらい、八右智はずっと紀流古を見つめていた。
「紀流古は達者だな。ああ、上手いということだ。里のどんな娘も敵わないだろう」
「うまい。なにがですか」
「刺繍が、だ。お前の刺繍が上手いと言ったんだ」
 すると紀流古は、布の端にしゃぶりついた。
「おいしくありません」
「そりゃあそうだ。何故、口に入れたんだ」
「なぜ。くち。やつーちさま、うまい。おっしゃたです」
 意味を捉えてから一呼吸、八右智は破顔して大笑いした。
「はは……ちがう、違う。この刺繍が、上手いんだよ」
「おいしくありません」
「つまり、だ。紀流古はとても良いことをしているんだ。良いというのは……ええっと、あれだ。紀流古は好きなものはあるか。楽しいとか、気持ちが良いとか」
「たのしい。ははうえ、かみのけ、とかします。きるこ、きもちいいです」
「よし、ではそれだ。俺は紀流古の刺繍を見ると、紀流古が母上に髪をとかして貰った時の気になるんだ。紀流古の刺繍が上手いからな」
 八右智は自分で言いながら「違うだろう」と呆れたが、他に言い表せなかった。
 紀流古は目と口をあんぐりさせ、八右智と刺繍を交互に見た。
「これ、ですか。やつーちさま、きもちいい、ですか」
 己の髪をくしゃくしゃにかき回し、紀流古は花より月より輝いた笑みを弾けさせた。
「すごいですっ」
 笑み一つで真っ白な居室が極彩色に見えかけて、八右智は咳払いで己を律した。
「紀流古は今まで、刺繍を『上手い』と言われたことはないのか」
「ははうえ、いだらさま、おっしゃてません」
 無愛想な話だ。褒めてやるくらいすれば良いのに。
 そして八右智は、そう思ってしまっている自分が少しおかしかった。
 八右智はあまり女が好きではなかった。かしましい姉に囲まれて育った上、里の娘達が侍人の嫁になりたがっている事も理由だった。とにかく女はうっとうしい。妻がどうこうという考えを止め、娼を上がらせた父も、きっと面倒だったのだろう。
 だから紀流古は、清々しかった。
 しかし花の刺繍が仕上がった日、八右智はその事実を知った。
「これ……は、藤か? どうして白いんだ」
 彼女が縫い取ったものは、形は間違いなく藤である。庭の藤のひと房を、小屋に持ち込んだものが元だろう。花を丸く囲む、白い盆が縫い取られているから分かる。
 紀流古は「ふじ。どうして。しろ」、何度も繰り返してから、やっと答えた。
「んっと。きるこ、めがよくないのです」
 彼女は自分の両目を両手で指差した。
「あなたはいろがみえてない。いろ、みはじめたの、おそかったから。ははうえ、おっしゃてます」
 自分が唱えた言葉の意味も知らないだろうに、紀流古はそれを口にした。八右智は打ちのめされ、改めて思い知り、思い出した。
 紀流古は火和湖霊女である。十六になれば――死ぬ。
 父も母も、彼女の刺繍を一度も褒めなかった心が、やっと分かった。