天の仔  第9章 − 2回


 最後の一枚を脱がす前で、菱呂はやはりためらった。
 その間に伊由古が動いた。おもむろに己の上衣に手をかけ、自ら左右に胸を開いた。
 菱呂は顔を逸らしたが、もう肌は目に映っていた。
 気負った分、余計に焼き付いた。
 平べったく、肉の全くない胸。少し浮いたろっ骨と鎖骨。へその上下、縦にすじの入った腹。
 伊由古の裸を見た事はある。
 いや、あの犯された痕を知っているから、今この日があるのに。
「なんでっ……」
 あの時と面影があまりにそっくりそのまま目の前に現れて、菱呂は手拭いを地に落とした。
 鎖骨の下、乳首の周り、ろっ骨のきわ、へその横。
 今ここに在る伊由古の体にさえ、そこかしこに誰かが肌を噛み、肌を吸った血の染みが残っていた。
 ――なにが、霊女だ。祀りの昨日まで、伊由古を犯していたんじゃないか……!
 八右智の顔を思い出して、吐き気を催しかけた。あの男が伊由古に圧し掛かっている様が、想像したくもないから浮かんでしまって、寒気が這い上がった。
 伊由古は細い手を菱呂の首に絡ませ、はだけた胸を懸命に押し付けて来た。
「そんなこと、もう二度としなくていいんだ伊由古!」
 途端に伊由古は首から手を離し、己の頭を抱えた。
「うぅっ……」
 噛み殺した小さな呻きと、震え出した細い肩。
 菱呂は己が、手を彼女の頭上に振り上げ、名前を叫んでいたことに気付いた。
「ごめんよ、大きな声を出して。違っていたのは、僕の方だったね。ごめん」
 けれど伊由古の恐れが伝播して、菱呂もまた震える。
 ついさっきまで男にしなだれかかろうとした少女が、今は痛みの恐怖に怯えている。
 これしか知らず、これを全てのものとして。
 伊由古の震えより大きな震えがきて、火が焚いてあるのに氷を踏んだようだった。菱呂の強張りがまた、伊由古を怯えさせる。
「ちがう……ちがうよ。僕は違う。もう、ちがう。なんにも違うんだ」
 いいや、口ばっかりだ。傷付いた細い体を癒す術も知らないくせに。
 ――あんたはきっと、なんにもできない。
 斗々富貴の言葉は本物だった。今なら、わかる。でも。
「伊由古。だいじょうぶだよ」
 菱呂はいたわり、彼女を包んでいた羽衣のように伊由古を抱き締めた。伊由古は震えたまま腕を下ろして彼に何かしようとしたが、動くことは適わなかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。なぁんにも、こわくない」
 人をどう抱き締めれば良いのかも、菱呂は知らない。
 だから斗々富貴がそうしてくれたように抱いた。
 斗々富貴は伊由古の祖母なのだから、きっとそれでいい。
 胸に鼓動が伝わってくる。合わせて、伊由古の背中をとん……とん、優しくたたく。いつしか二人の鼓動も息も同じ間で刻まれている。
 火と日が洞穴を照らし、支え合う二つの人の影を地に刻んでいた。
 やがて、伊由古が落ち着いたか、己が早いか。
 自然と「もう大丈夫」と思えた頃になって、菱呂は伊由古を腕から離した。布を引いた地にゆっくりと横たえて、最後の衣を脱がし、袴も取った。胸と腰は羽衣の適当なもので覆ってやった。
 男の痕、少女の裸体、もし望みさえすれば自身も男になれるこの状況。
 菱呂としてどれにも何の感慨もないと言えば嘘になるが、想いが一つも無いのもまた不自然だ。生きているのだし、彼女は女で自分は男だし、気にしているからこそ隠すべきところは隠した。
「冷たかったら、ごめんね」
 伊由古の首から鎖骨、肩から腕へ、上から下へと手拭いをすべらせていった。伊由古は腕をだらんと体の横に添わせ、内側に向いた足を時折小さく跳ねさせるだけだった。
 頬を拭いた菱呂の目と、伊由古の瞼に収まった目が合った。
「い、ぉ、い……い、ろ」
 彼女は肘を伸ばして、菱呂の瞳に触ろうとした。
 本当に眼球に指が触れてしまって、「いたたっ」、菱呂はひりっとした痛みに瞼が閉じたが、我慢してすぐに目を開けた。
「うん、ひしろ。菱呂だよ」
 菱呂は伊由古の指を目尻の際へどかすだけで、後は好きなようにさせた。
 今、彼女が「男」へ触れたがっている手は、扇情ではない。
 呻き声でも嬌声でもなく、意味のある言葉を紡ごうとしている。
 空色の瞳を、果てなく真っ白な心に降ろそうとしている。
 菱呂は伊由古の全てが嬉しかった。

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