菱呂は、怒っていた。初めて怒りという想いを自覚していた。どうして人はこんなに胸が押しつぶされそうになりながらも生きているのかと思えるくらい、憤った。
全ては一陀羅が仕組んでいたことだった。
紀流古と伊由古を汚し、八右智や見石を従わせていた。
一陀羅の周囲に居る男達は皆、鼻から上に仮面を被っている。しかし全員どこか様子がおかしい。腕が震えていたり、膝が笑っている。中には歯をむいて怯えた者もいる。
霊女――伊由古がここにいるからだ。
だから菱呂も今以上の言葉を一陀羅にぶつけられなかった。伊由古はこれからも、そこが里であろうとなかろうと生きていく。
なのに奴隷としてのこれまでを、仮にも里人の前では決して口にできない。里人に伊由古を汚れた者として見てほしくはないからだ。
一陀羅はそのためらいを見抜き、左右の男達を見やってから菱呂を指差した。
「あれが、罪人だ。防人とは名ばかり、霊女さまをかどわかし、湖霊さまに背いた不届き者だ。湖霊さまはお怒りになり、早く祀りを終わらせなければ里に害が及ぶ。我々は里を離れては生きていけない――いいな?」
彼はそれっきり口を閉じ、男達の答えを待った。
数秒後、右から二番目の男が、歯ががちがち鳴っている口をこじ開け、「……うわあああああっ」、怯えを叫びながら菱呂に矢を放った。
菱呂はあっけなく、矢を棒ではじいた。
「皆、やめてください。霊女だって人です! これから先ずっと人を殺し続けて生きていくんですか。そんな土地なら、もう捨てたって良いじゃないですか!」
しかし左から二番目の男が叫ぶ。
「うるせえ、流れ者のくせに……っ。俺は他所で、お前みたいに指差されて生きたくねえ!」
それを合図にしたように、次から次に矢が飛んで来た。
矢は霊女がいるからか、つぶてを石でくるんだものだった。でもこんなものでも伊由古に当たればどんなに痛がるか。しかもかごに繋がれた理島も身を守れない。
「八右智さんは、理島さんを! 伊由古はこっちへ、僕の、菱呂の後ろに隠れてて!」
言うが早いか、矢が菱呂の額に当たった。熱い痛みが額を刺す。拍動に合わせて痛みが波紋となり広がっていく。血が流れ、こめかみから頬にかけて生ぬるいかゆみが泳ぐ。
男達は怖気づいたが、手加減するなという一陀羅の喝で再び矢を放った。
一つ、二つ、三つ、そして四つ目で避け切れず、菱呂の肩に当たる。体勢を立て直そうとした隙に、足を打つ。よろけたお陰で六つ目が外れ、七つ目を棒で弾き返す。
そんな事を何度繰り返しただろうか。
既に三十発近いつぶてを体中に受け、菱呂は立っているのも精一杯になっていた。幸いにして伊由古は無事だが、彼女に当てまいとする自身が盾になっているにすぎない。
「もうそろそろいいかね」
一陀羅が片手を掲げると、男たちは弓を下げた。動いたわけでもないのに彼等は息が切れ、汗を流している。膝も頼りなくなっている。
一方で菱呂の額と手の甲は血が流れ、頬は裂けている。胸も腹も脚もどこもかしこも痣だらけ。あちこちから広がる痛みは、体のどこかでその波を混ぜ合わせ、てんでばらばらな方向へ痛みを広げ合って、矢のぶつかっていない所にまで熱を届けている。
しかし胸は落ち着き、たとえ呼吸は乱れていてもしっかり息をしていた。
菱呂はぼんやり座っている伊由古の手を取り、隣に立たせた。
「伊由古、立てるかな。菱呂の手をちゃんと握ってね」
「いち……お」
伊由古が空色の瞳を見つめているのが分かると、彼女がこの目を見つめられるようにしっかりと微笑んだ。
「うん、菱呂は大丈夫だよ。……ありがとう」
霊女の様子を始めて見た男達に、何かの衝撃が広がったが、一陀羅は険しく制した。
「遂に霊女さまを人質にし始めたわ。まったくもってずる賢い、汚い男だ」
しかし菱呂は何も目に耳に入れず、友だけを見つめた。
「ごめんよ見石。僕は伊由古を見たから、君に霊女さまの様子を言えなかったんだ。伊由古を……哀れだって思ってしまったから。僕だって、汚い。伊由古を蔑んだ」
「なんという……見下げ果てた男だ! 霊女さまを軽蔑するとは、万死!」
一陀羅の声で男達は雷に打たれたように背を伸ばし、再び弓をつがえる。
「そうだね……僕はただそこに居るだけで、里の皆を痛ませた。罪人かもしれない」
「分かっているなら、ごたくを並べずに観念しろ」
男達は震えが止まっていた。もう開き直ったのかもしれない。
菱呂は、諦めでも開き直ったのでもない。ただ――
「だったら僕は、全ての悪を背負う」
左手に伊由古の手を握り、右手に棒を構えた。
その真ん中で、空の下で日に照らされ、菱呂は叫んだ。
「見石! 僕が悪者になる。くたばって野垂れ死んで土に還るまで、里で起きた罪も悲しみも全てこの骨に閉じ込めて持っていく。だから、今だけでいいんだ。もう一度、今だけ! 力を貸してくれ! 僕は伊由古に生きていってほしいだけなんだ!」
四つの弓が震え、矢が放たれた。
菱呂の元には、一本だけが届いた。
二本は高く虚空に舞った。もう一本は弓から情けなく落ち、足もとに転がった。
矢が放たれる一呼吸前、見石が三人の背を、横にした棒で一度に打っていた。