天の仔  第5章 − 5回


 菱呂は由馬の墓を探した。
 やっと端の端、ここから先は坂が急になって埋めた棺が土から溢れてしまうという斜面の際に、「由馬」と刻まれた小さな墓標があった。
 すっかり汗にまみれた体を休めつつ、菱呂はまず墓に礼をした。振り返ればかなり登っており、いったん谷を下っているのに、祭事家の裏山と目線の高さが近付いている。
 探せばやはり置き忘れはあるもので、丘陵を巡る内に土を掘る鋤も見つかっていた。
 墓に入れると言っても、墓を暴くという事ではない。
 棺は家で人が死ぬ毎に開かれ、新たな躯が入れられていくものだ。土に還せば無残な骨と肉を晒しかねないから、棺で時を待つのだ。
 掘り進む内、鋤が地中の棺にぶつかった。菱呂は棺を傷付けないよう、両手で表面の土を除ける。四隅で留まった掛金を外すと、棺の蓋を慎重に取り外す。
 棺の中には袋が一つ、入っていた。
 まだ人の形に盛り上がっていた。
 菱呂はまた丁寧に礼をし、土壁に身を乗り出した。
 他に家族の居ない棺は浅い。
 念のために口と鼻を塞いだが、特に嫌な臭いはしなかった。由馬が死んでからの十六年という月日は長いものらしい。躯は僅かに皮が残っているか、骨だけかもしれない。
 躯を収める袋は、正しくは袋ではない。大きな布を二つに折り畳み、その間に躯を収める形だ。布の上下の端には紐が付いている。頭の上からつま先の下まで、十ヶ所以上にしつらえたこの紐で、上下を縛って留めている。
 躯は必ず胸の上で手を合わせるから、菱呂は袋のその辺りで側面の紐を解いた。
 親ならばきっと、へその緒はその腕で抱いてやりたいだろうから。
 しかし風化した死に触れるのは、あまり気分のいいものではない。菱呂はなるべく何にも触れないように手を入れ、胸の上だと思われる辺りで、そっと躯を探った。
 何かが菱呂の手に当たった。
「……え」
 胸がざわっと震えた。
 躯が入っているはずの袋で「何か」が手に触れた。
 菱呂は袋から手を抜いた。箱はまだ入れていない。
 そのまま袋の側面の、まだ他に紐で結んである所を、黒く塗り潰せるほど見つめた。
 袋は閉じてある。このままにしておけばいつまでも、何をしても閉じられたままの袋だ。
 ――僕はただ、伊由古さまの母君に、娘を抱かせてあげたいんだ。
 だから、ここに本当に入れて良いかどうかを知りたい。
 やっと見つけた理由を頼りに、袋を止める紐を解いた。あとは躯にかぶった布をめくるだけという状態になった。いつしか辺りは朝焼けを控えた薄闇の頃となり、袋に収まったものはくっきりと宙に映し出されるだろう。
 菱呂は思い切って一息に布を剥いだ。
 細かな虫がさっと散って行った後、そこには人の形をしたものがあった。
 だから人ではなかった。
 棺には人の形を模した、ただの滑稽な造りものが横たわっていた。
 脚と腕は木の棒。腰は石。胸は木の板。それらを組み合わせ、大きさに合ったものを、或いはそれらしい形に削ったものを、人の形となるように組み合わせている。
 指は、何かを指の形に固めたもの――恐らく土だろう――を布でくるんでいた。足も同じ作りで、「細かい部分」はその技法が取られている。
 頭だけは骨だが、鼻の穴がかなり上を向き、口蓋も鼻の前に突き出て、頭の後ろも長い。人間の頭蓋ではない。頭は細かすぎるから、似た獣を宛がったのか。
「……な、んで……」
 袋を開いたままの格好だった菱呂の手から、布がすべり落ちた。布は人の形をしたものを覆い、ばさりと土埃が舞い上がって、すぐに収まった。
 菱呂がそれを見つめられていたのは、数回の呼吸の間だけだった。
「っう、わああああ!」
 袋の紐を縛った。棺の蓋を締め、夕立ちよりも急いで土を被せた。
 ――どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうし……
 伊由古の母は、由馬は、ここに眠ってはいなかった。
 でも伊由古が在るのなら、母が居ないわけはない。
 だから伊由古の母は、伝えられている通りの「由馬」ではない。
 祭事家が、偽った。
 そして屋敷に病気の女を匿い、葬儀をあげた――という事実を作り上げられた者がいるなら。
 十六年より前から侍人を務めている、八右智ひとりだけ。
 ――落ち着け、落ち着け、落ち着いて……
 菱呂はまだ騒ぐ胸を鎮めながら、むしろ大事に箱を抱えたまま丘陵を下った。
 あるべき場所に、躯がなかった。しかし偽の躯を用意してまで、葬儀は行われた。
 祭事家では伊由古を生んだ「由馬」という女が、必ず存在しなければならなかったのだ。
 どこにもいない女を身代わりにしてまで隠したのは――
 伊由古の実母だ。
 ならば伊由古の実母はどこにいったのだろう。十六年前、伊由古は確かに祭事家の奥で生まれたのだから、里の女の誰かが実母であることは疑いようがない。
 しかし里の誰もが「由馬」を信じているのは、里のどこにも「由馬」がいなかったからだ。里のどの女も己が「由馬」でないからこそ、里人は祭事家の偽りを信じられたのだろう。
 伊由古の実母は里のどこにもいなくて、祭事家にだけ存在した女。
 もはや流れ者の「由馬」としか考えられないのに、流れ者ですらない女。
 そんな女が一体どこにいるというのだろう?