座りこんだままの菱呂の後ろから、斗々富貴が「おーい」と声をかけた。
「これ、服にくくりつけてあったけど」
彼女は袴を片手にしている。もう片手には角の一つがつぶれた、小さな箱がある。
他でもない、霊女の居室から持ち出してしまった箱だ。
「少し濡れちまってるけど、大丈夫なのかい。中身は平気かい」
「あ、中身は……その」
菱呂は初めて箱を開けた。中は柔らかで上等な白い布が丸められている。その布の端をめくっていくと、最後には小指の大きさも無い細長い何かが現れた。枯れ枝のようで、紫色の染みが点々ににじんでいる。どうも汚く感じられて、菱呂は手にするのをためらった。
しかし斗々富貴は全く意外な歓声をあげた。
「へえ、あんたはやっぱり、しっかりした子だねぇ。良いお守り持ってるじゃないか」
彼女は我がことのように嬉しげに、菱呂の頭を小突いた。
「それ、あんたのへその緒だろ」
「へそ……の、お」
余計な何かを叫びそうになり、菱呂はとにかく口をつぐんで頭を縦に振った。
誰かの赤子を抱かせてもらったことなどない。これがへその緒だなんて知らなかった。
あの部屋にあったのだから、きっと、伊由古のものだ。
思っていたより大変なものを持って来てしまった。
早く箱を直さないといけない。
「長居をしてすみません。あつもの、ありがとうございました。美味しかったです」
菱呂が几帳面に頭を下げると、彼女はまた大らかに微笑んだ。
「雨宿りする場所がないんなら、またいつでもおこし」
「いえ、これは仕方ないことですから」
「それ、あんたのくせかい?」
「え?」、菱呂はそのまま固まって、自分の姿を見下ろした。
手や足や、見えないけれどきっと顔も、くせだなんておかしな仕草をしていた覚えはない。
「あんたは仕方ない仕方ないばっかり言う子だね」
そして斗々富貴の答えは、まったく違ったところにあった。
「この里で仕方ないっていうのは、おなか痛めて生んだ子が霊女さまだったとか、せいぜいそんなことくらいじゃないかねぇ」
斗々富貴は土間に降り、片付けを始めた。背中が「もうお帰り」と告げている。
雨上がりの夕暮れはいつもより色が深かった。
見なれた家々の屋根すらも木々と大地のめぐみが満ちている。うるおった色が知らせてくれる。
――僕だったら、この里をわざとあんな白っぽい色にはしないよ
でも刺繍は、霊女が見ているであろう光景を、そのまま切り取っていた。
あんな大層なもの、強い想いがなければ七枚も作れない。しばらくおきに入っていたというのは、きっと作るのに時間がかかるからだ。生半可なものではない。
三役の誰かがそんな心で、長い間、刺繍をしたのだろう。
霊女の母だった斗々富貴に、きっと少しでも娘の光景を伝えるために。
もう、それで良いじゃないか。
人に知られたらどんな罰が下るか分からない境目を縫い、せめてもの慰めを縫い取り、優しさと情けが詰まった刺繍なんだ。
大体、何をどう知ったところで、己が何かをするわけじゃあない。
菱呂は全て忘れたつもりで、いつもの家に帰って行った。
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