菱呂は雨のように呟いた刹那、白い衣と頭衣を一気に脱ぎ払った。
「伊由古!」
立ったままの伊由古を左腕に抱きよせた。
布が舞った後、眼前の八右智も既に白い衣を脱ぎ去っていた。彼は小刀を握り、怒ったとも悲しいともつかぬ、少しだけ険しい表情で菱呂を見据えている。
菱呂は、今度は大胆に息を吸って、有りっ丈の厳しさで火和湖を向いた。
――僕は里の者じゃない。よそ者の僕が何をしても、里は痛まない。
「聞けぇ、湖霊!」
喉が弾け飛ぶほど叫んだ。
「お前の嫁は、僕がもらう!」
――だから僕なら、湖霊の敵になれる。
「せいぜいそこで、歯噛みしていればいい! 僕は里の者ではない、ただの流れ者だ。悔しければ里に逆恨みなどせず、正々堂々と僕に禍を与えてみろ!」
八右智が小さく、しかしじっくりと息を呑んだ。
「菱呂くん、霊女さまを離し給え。今なら間に合う、私も侍女も忘れよう」
菱呂は答えの代わりに、伊由古の目隠しを一気に解き放った。
一息の後、火和湖を目にした伊由古は、頭を振り回して腕をさまよわせた。
「あー、あっ、あ……ああ、あー……っ」
彼女は手を両目の辺りで振り回し、いかにも嫌がって呻いた。
「おやめくださいっ」
理島が地を蹴った。彼女は振りほどいた己の頭衣を伊由古へ掲げようとしたが、火和湖を臨んだ辺りで急に背をそらせた。
「ああっ……」、理島は苦しげに両手で顔を覆い、斜めに倒れた。
「理島!」
八右智が小刀を放り上げ、理島へ腕を伸ばした。
――今、だ。
菱呂は伊由古を肩に担ぎ、一目散に火和湖のほとりを走った。
岩の切れ目へ辿り着く。
その先の下り坂を、転がるように駆け降りる。
やがて来た道に似て、石の間から細い草が見え始めた。間もなく土が現れ、石より土が多くなり、草が生えて花が咲き始めた頃、膝までの樹がちらほらし始めた。
そして突然、置き石のように木立が現れた。
「はあ、はあ……あ」
菱呂は木立に分け入った。
伊由古をその辺りの木にもたれて座らせると、自身もやっと一息つく。夢中で走って、体はどこもかしこもぶち切れそうに張っている。
改めて、来た道を振り返った。木立の隙間から灰色の御山が見える。随分、一気に、降りて来ていた。すぐに誰かが追って来る気配はないが、油断は出来ない。
「伊由古、平気かな。もう少し先まで行ったら、ちゃんと休もう」
菱呂はしゃがみ込み、伊由古に目を合わせた。彼女は道中、ただ静かだった。
「君は、さ。十六年間、こうやって座っていたんだよね」
とりあえず伊由古の手を取ると、彼女は手を握り返してきた。そろそろと腕を動かし、菱呂の手を自分の肩か胸の辺りに触れさせると、ゆっくりと体を彼の方へ傾けた。
その唇が己の唇に触れそうになるまで、菱呂は動かなかった。
「……伊由古」
息が混ざったところで、やっと彼女の肩を支えて止めた。
「あ……あ、あ……」
伊由古は留められた事も分からず、一向に近づかない菱呂との距離を縮めるべく、ただ体を前に押し続ける。
「君はずっと、こうやってきたんだね」
さらったことが正しい行いかは分からない。責められて言い訳もできない。
それでも伊由古の手、指先の小さな少し冷たい手は、やはりあたたかい。
この手で生きる術を知らないまま、最後は殺されてしまうなんて。
あんなに小さな里にへばりつくために、一人の少女が死ぬことこそおかしい。
仕方ないと片付けられることなんて、何一つとして無いんだ。
「ねえ、伊由古。僕は何もできないけれど、これだけは絶対に約束するよ」
小枝より頼りない指先を、しっかりと引き寄せて微笑んだ。
「僕は、きっと君を死なせない」
包んだ両手に一層の力をこめた。伊由古が反応して、少しばかり腕を震わせる。
言葉を知らないだけだ。彼女の心には何かが降りている。
生きているんだ。
伊由古は導かれるままに立った。嫌という様子でだけはない。
「……ありがとう」
菱呂は右手に棒、左手に掴んで来た白い布を抱えると、伊由古をおぶって木立の深くへ入って行った。