主の居なくなった小屋も様々のことが片付けば、新たな霊女を迎える。今その赤ん坊は、新たな侍女と一時的に別室に居るだけで、里の営みが終わることはない。
理島は、間も無く二度と足を踏み入れなくなる居室の中央で、膝を抱いていた。
居室の扉が開き、薄灯りと共に人が入って来た。
顔や声は要らない、気配で分かる。
ずっと、そうだった。
「八右智さま」
まるで懐かしい気分で、理島は彼を見ないまま呼びかけた。
「部屋に居ないから、探したぞ」
「わたくしの居る場所は、今のお部屋かこの部屋しかありません」
「伝えに来た。父上は夜明け前になったら、御山へ彼を探しに行かせるそうだ。明日の朝頃には、彼はしかるべき場所へ辿り着くだろうからな」
「そうでございますか」
上の空とはまた違う雰囲気で、理島は答えていた。
どうでもいい――乱暴に表してしまえば、そんなものかもしれない。
「八右智さま」
理島はやっと顔を上げ、己の前に膝を突いた彼を見た。
「なにかあったのか」
「八右智さま」
「どうしてこんな所にいたんだ」
「八右智さま」
「ひとりだったのか」
「……わたくしは、ひとりではございません」
彼女は八右智にしなだれかかり、顔をうずめた。
「あなた様がいるかぎり、わたくしは何も見えなくても見えるのです。何も言えなくても話せるのです。知らなくても、わかるのです」
「昔の話だ」
八右智はその場に腰を下ろし、壁に背を預ける。天井よりはるか遠くへ視線を投げる。
「理島、お前はどうしたい。もっとも楽になる道はなんだ。このまま何事もなかったかのように、ここで暮らし続けるか? それとも二人でどこかに逃げるか?」
彼はかつて伊由古の暮らしていた、奥の居室を見やった。
「あの少年と伊由古は、遅かれ早かれ父上が見つけるだろう。その隙に俺とお前だけなら、逃げることはできなくもないだろう。そうすれば俺達は全てを捨てることができる。父に捕まったあの少年がどんな末路を辿り、伊由古がどんな牢に囚われ続けるかを知らずにも済む」
理島は、顔をそむける八右智の首に抱きついた。
「わたくしには、わかりません。わたくしはあなた様と共にあることだけが望みです」
「あの少年が命を落としても、気に病まないか」
「あなた様が平気であれば、わたくしも気になりません」
「伊由古が、死ぬまでここに囚われ続けてもか」
「あなた様さえ、それでよければ」
八右智の視界の端に映る理島の顔は、少し苦しげだった。
「わたくしは己が、何者であるかもわかりません。己を誰かの……母親と、思えたこともありません。そんなわたくしに、ものごとの何が善いか悪いかなど、わからないのです」
その言葉が終わるか終らないかの内に、
「俺を許してくれ……!」
八右智は理島の体をぐっと押し抱いた。
いつしか両の目から、涙がほろほろとこぼれ落ちていく。
「お前を誰の娘にも、妻にも母にもできなかった。お前はもしかすれば湖霊の嫁になった方がよかったのかもしれない。俺にも分からない。こうまでしてお前も俺も生き永らえていることが正しいのかどうかなど分からない。それでも俺は、俺は……っ」
八右智は理島の、左目にかかった髪をかきあげた。茶色くただれた肌を繰り返し撫でた。
「死が正しいなどとは、決して思えないんだ」
もう一度、かたく強く、彼は理島の体を抱きしめた。
胸の中で理島も、とても幸せそうにほほえんだ。
なに一つ考えずに。
「八右智さま」
「ああ」
「八右智さま」
「なんだ」
「いいえ」
「呼んだだけか」
「はい。八右智さま」
理島は少女のようだった。
過ぎた年月などどこにもなく、八右智が初めて彼女を抱いた時に見たのと同じ姿だった。
時間はただ流れただけで、彼女の時間は最初から何も動いていないのだと、八右智は痛感した。
「理島。いや――」
かつて薄暗闇の中で、月のように星のように探して求め続けた名を呼んだ。