一夜経ち、再び伊由古を前にすれば、何も変わってはいなかった。
「火和湖防人、菱呂にございます。本日も火和湖霊女伊由古さまにおかれましては、ご機嫌うるわしゅう存じます」
今日も伊由古は何も発せず、座に収まっている。いや、もしかしたら、彼女の具合が落ち着いている時を見計らったのかもしれない。理島が要領を得ただけかもしれない。
そこで伊由古は唇を縦に開いた。
まさか、言葉を口にするのかと思われたが、
「……あ……ぁー」
聞こえたものは、息とも声ともつかない呻きだった。
理島がすぐに伊由古の肩を抱き、菱呂を振り返った。
「喉がかわいておられるのです。少しばかり失礼いたします」
彼女は部屋の右隅にしつらえた棚の鍵を開け、戸を開いた。ろうそくや手ぬぐい等が備えてあり、そこから水差しを床に置く。しかし彼女は湯呑に水を注がず、棚を探り続ける。棚の中にも、それから部屋の隅にも、白い食器が幾つも重ねてあるのにだ。
昨日の不用心も同じだ。この女性はどうにも手際が悪いらしい。
この程度なら手伝おうと、菱呂は隅に置かれた白塗りの椀に水を注いだ。椀の半分くらい、こぼれないだろうという量で伊由古に差し出す。
「伊由古さま、どうぞ」
たちまち伊由古の顔が歪んだ。
「あっ……あああああっ」
彼女は呪いのような悲鳴を上げ、椀を手で払いのけた。
か弱い力だが、不意のことだったため、菱呂は椀を取り落とした。
こぼれた水は床の敷物に染み、理島が小さな悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい! 僕、お手伝いできないかって」
「いいえ、あ……ひ、菱呂さま、お下がり下さいませ。お願い致します!」
理島は伊由古の前へ回り、彼女をさすったりなだめたりしていた。
その後、棚の最上段からやっと降ろした茶色い湯呑に水を注いだ。
「伊由古さま、おあがりくださいませ」
伊由古は湯呑をか細い両手で包むと、理島に支えられながら水に口を付けた。
菱呂は光景に背を押され、居室を後にした。棚は伊由古が万が一ひっくり返さないよう、鍵がかかっていたのだろう。一人では水も飲めず、湯呑も満足に持てないからだ。理島も心得たもので、様子を見ただけで欲するものを与えている。
――大きな赤ん坊じゃないか。
白い衣を脱ぐ内に自然と口数が少なくなっていると、理島が頭を下げた。
「不手際を、まことに申し訳ありませんでした。お許しください」
「いいえ、僕こそ何かしてしまったのではありませんか」
彼女は何度か深い息を繰り返した後、心細く告げた。
「実は、その……伊由古さまは、お水が苦手にございます」
「水、ですか」
何だそれはという思いで、つい素っ頓狂に尋ね返したが、相手は至って真面目だった。
「お水が『よく見えて』しまうと、まぶしく思われるのです。ですからお水を差し上げる時だけは、白い椀は使えません。黒っぽい椀で、水をよく見えなくしているのです」
菱呂は初めて聞く理屈に黙るしかない。理島は繰り返し腰を折る。
「菱呂さまは伊由古さまを気づかってくださったのです。感謝しております」
それもなんだか不思議な話だと菱呂は思った。伊由古はもうじき死ぬ――もとい、湖霊の元へゆく。その娘の体の調子を気遣うのだから。
もちろん祀りの前に生き終わってしまったら一大事だが、あの細さでは健やかなどとは言えない。
「あの細さ」、それを知ってしまっている自分も恥ずかしくなった。
しかし何せ、無知である。見石も摩耶女も語った、霊女が「死ぬ」という事実を、己は全く知らなかった。八右智こそ驚いただろう。とんでもない物知らず、と。
そんな者が彼等を裁ける筈がない。伊由古が犯されていたのだって、嫁がせる前の「慣らし」かもしれない。或いは湖霊が八右智に降りて伊由古を愛でているかもしれない。
そんな「祀り」が行われていないと言い切れたものだろうか。
里を知り尽くしている八右智が、湖霊に無礼な真似をする筈があるのか。
理島も、伊由古に何が行われていようと、拾ってもらった身で進言など出来るわけがない。ほら、妙に顔色をうかがってくるのは、その娼婦ゆえの癖かもしれないのだ。
もう、気にするのはよそう。
世の中には山ほど、仕方ないことがあるのだから。