と、前触れもなく戸が開かれ、あご髭を蓄えた男性が現れた。
男性は髭も髪も白いものが混じり始め、肌にも衰えがある。菱呂は座を譲ろうとしたが、彼は「すぐに引き上げる」と断った。
「わたしは一陀羅(いだら)。先代の火和湖侍人であり、そこの八右智の父だ」
菱呂は一陀羅とはほぼ初対面だった。八右智であれば里で何度も見かけていたが、この父親の記憶は薄い。引退はとうの昔だろう。
「八右智。もう事の次第はお話したのかね」
「はい、父上。――菱呂くん、残るは祀りの日取りだ。今は準備の時に当たる。霊女さまの十六歳の生まれ日から最も早い満月の日、防人を決める試合が行われる。これが今日の日のことだ。次は湖霊さまのみが知ることだが……この里に女の赤ん坊が生まれるのを待たなければならない。その子が生まれてから最も早い満月の日に、『婚儀』が行われる。即ち本日から最短で二十八日後ということだ。『婚儀』では霊女さまを火和湖へお連れし、三役(さんやく)の付き添いで火和湖にお捧げする。三役とは侍人、侍女、防人の三人を指す。後は日を追うごとに、判るだろう」
八右智は一通りを述べたらしく、菱呂を立ち上がらせた。
「三役は毎朝、霊女さまに目通りするのが決まりだ。君は当家に来てもらえば、家人にこの『三役の間』まで案内させよう。ここから小屋側の扉は鍵をかけているので、侍女の迎えを待ってくれ給え。帰りは『三役の間』へ家人が迎えにくる。面倒だが、よろしく」
すると菱呂の水色の瞳へ、一陀羅の眼差しがあからさまに注がれた。
「失礼。口伝てに聞き及び、興味があってね。菱呂くん、美しい瞳だ、実に」
菱呂は水色の目を隠しかけたが、すぐに手を降ろした。
「僕は……本当に、僕などが防人になってしまって良いのでしょうか」
「心配には及ぶまい。君は今日という時において、この里の誰よりも棒に長けていた。防人としては他に何も必要ない。仮に父や母が里人でなくてもだ」
最後の言葉に、何かが口からもれかけたが、菱呂は一礼をして自ら閉じた。
屋敷を出たのと時を同じくして、一人の童女も門から出てきた。
童女は瞳を輝かせ、幼いながらに菱呂に見惚れていた。菱呂自身は認めないが、彼の顔形は里の男の中でも、女を数に入れても指折りに整っている。
一人なら送ってやろうと、菱呂が童女に家を尋ねかけた時だった。
悲鳴と共に門から走って来た女が、童女を抱きかかえた。
「娘を見ないで!」
女は童女の目をふさぎ、自らの上衣の裾で体を覆い、駆け足で去った。
菱呂は二人の背が見えなくなるまで、その場にずっと留まっていた。
気が重いのではない。
幼い女の子と母親を、足音で不安にさせなくなかったからだ。
やがて、細い草がまばらに生える野原を歩いた。里の外れだけあって集落は遠く、更に我が家は里のおよそ向かい端だから、菱呂は少しばかり足を速めた。山々の合間から突き刺してくる夕日の線は、間もなく稜線に沈む。明かりの用意はしていない。
家々は土を固めた壁と、細切れの木をつないだ屋根。丸くくり抜いた窓。質素だが、生きていくに不自由はない。湖霊は川を流し、土を肥やし、里を潤してくれている。
あちこちの窓から昇る白い煙は、麦と雑穀を混ぜた飯を炊いたものだ。これに山菜を果実酢で締めたものを合わせ、干し魚を千切って湯で戻して汁にすれば申し分ない。
――白い皮で包んだ饅頭とは、どんな味だろうか。
草の芽吹く大地、青々とした葉を茂らす山。その緑に黄金を弾けさせる陽と、落日に抱かれる里の家々。香ばしい飯を炊く母、笑う子供、畑で食を育んできた父親、眠れる老人、泣く赤ん坊。その全てを覆う、高い高い空。
この里の片隅に、里の全てを守る役でありながら、里にある全てを知らない少女がいる。