天の仔  第1章 − 5回


 二重の部屋を抜け、白い衣を脱ぎ、八右智は菱呂を伴って屋敷内の別間へ進んだ。
「気疲れしただろう。まずはおあがりなさい」
 彼は使用人に茶と、砂糖を固めた菓子を運ばせた。菱呂は茶の香りと、砂糖の上質さに驚いた。毛足の長い白絨毯と、柔らかな丸座布団の色艶も初めてだ。室内には派手な調度品こそ無いが、格式は充分に高い。この部屋だけでも菱呂の家の居間と同じ広さがある。
 里で祭事を執り行う身分は八右智の家だけである。彼等は畑も耕さないが、里人が産湯を浴びてから墓で土をかけられるまで、一生の祭りを一切任されている。その都度、里人が出す御礼に暮らしは支えられているが、大した量にはなるのだろう。
「君は若さの割に冷静なのだね、菱呂くん」
 八右智の声は、高い天井に少しだけ響いた。
「霊女さまと初めて目通りした歴代の防人は、あまりに厳かなる人離れしたご様子に、涙を流して感激する者も少なくないと聞いているのだがね」
「っそれは……僕はまだ、幼いですから。ご威光のほどが分からないのです」
「幼いとて、十六だ。髪は切っている。私は君の落ち着きに感心しているのだよ」
 実際、八右智に皮肉られていても仕方がない、と菱呂は思っていた。
 霊女への想いは決して畏れ多いというものではなく、あえて言うならば「恐かった」。
 菱呂とて湖霊を拝する気持ちはある。嫁となる霊女も敬っている。里が信じ、里を生かしているものは、他に何もない。
 しかしこの里から嫌われている己を、湖霊も嫌わないものだろうか。
「霊女さまは――」
「伊由古(いゆこ)さまだ」
 八右智は微笑みながら正した。
「歴代の霊女さまと混ざるだろう。外ではともかく、ここではそうお呼びしたまえ」
「では伊由古さまは、僕を嫌がって、黙っていたのではありませんか。僕が何者であるかをご存じだったのではありませんか。この髪と、目も――」
「その髪と目のことは、私も全く知らないが」
 菱呂はすぐさま反論しかけたが、
「すまない、撤回しよう。全くとは嘘だ。だが私の知る君の話は風の噂にすぎず、私自身が菱呂なる人物を菱呂として知り得た話ではない。故に私は、知らないと思っている」
 八右智は話を変えるためか、茶を飲み菓子をかじってから、改めて切り出してきた。
「君は、祀りの締めくくり――霊女さまが湖霊の御方と挙げる『婚儀そのもの』の仔細は、知っていたかな」
「……その、御方には火和湖のお姿しかありませんし、霊女さまもお姿を見るのはごく一部の方だけですし……御山は俗世の者の立ち入りはできませんし。僕の父も、はっきりと教えてくれたことはありません。婚儀そのものと言っても、霊女さまがこちらのお屋敷か火和湖で、お祀りをなさっているとしか……」
「湖に捧げるのだ」
「はい」
「御方が湖霊のお姿であれば、霊女さまを火和湖にお沈めするしかなかろう」
 八右智の険しい表情と言葉の一つ一つをつなぎ合わせ、菱呂ははっと息を呑んだ。
「し、……死ぬということですか」
「驚くことではなかろう。湖霊さまの棲まう世には、俗世の者では行けぬ」
 しかし彼はまったく平坦に答えた。
「我々凡人の死と霊女さまが御方に嫁がれることは全く異なる。我々は俗世のものだから死が苦しく、生にしがみつく。だが霊女さまは清らかゆえに、病も苦しみもご存知ない。いや汚してはならないからこそ、我々は祀りの日まで一切の俗世に触れさせぬようお守りしているのだ。霊女さまは生れてから、あの小屋から出ることはない」
 八右智は己の目や耳を手で示した。
「霊女さまはあらゆる俗世を遠ざけるため、ものを見てはならない。書も文字も要らない。言葉を知ることすらならない。口にするものは細かくした食べ物を包んだ、白くて丸い饅頭に限られる。色は白の他は、ご自分の髪と肌の色しか見せてはならない。――ゆえに我々は、白き衣に身を包み、顔を隠す。それでも侍人、侍女、防人のみしかお会いしてはならない」
 彼はその指を、呆然としている菱呂の瞳に向けた。
「特に君の水色の瞳は、決して見せてはならない。それは霊女さまが知らない色だ」
 恐ろしい――菱呂は「かじかんだ胸は間違っていなかったのだ」と、下衣にひんやりしてきた汗を感じ、鳴りそうになる歯を堪えていた。
「では……あ、あの方は、伊由古さまは……言葉が通じないのですか」
「そうだ。俗世の言葉など必要ない」
「生まれた時から今まで、あの部屋で……寝て起きて、饅頭と水だけを口にされて、ずっと座っているだけだ……と、いうのですか」
「そうだ。汚れてはならないからだ」
 八右智は微動だにしなかった。それが正しいと、しゃんと伸ばした背筋で示している。菱呂も、成程とは思う。この里を守って下さる湖霊の嫁君を、尖った俗世に晒してはならない。
 ならばこの、針で突いた底知れない穴のような気持ちはなんなのか。
 きっと、畏怖だ。
 初めて味わう思いだから、戸惑っているだけだ。
 いつしか室内は無音になっていた。菱呂の家ならば、山から山に渡る鳥の声や獣の遠吠え、畑から帰ってくる村人の足音も聞こえるだろう。だがこの屋敷は木が高い。