八右智の、涙を伴わない慟哭が、菱呂の胸を深く図太く突き刺していた。
理島をとどめ、死を避けようとした八右智の言葉を聞いていた。
――僕は今、何を見てしまっているんだ?
伊由古の父は八右智だ。母は理島だ。本人がくっきりと口にした。
だから菱呂は、かつての霊女だった理島を、八右智が汚したのだと思い込んでいた。
でも今、八右智はまるで、理島を守っている。慈しんでいる。決して彼女の手を汚させまいとした。理島もまた、八右智を想い、動き、彼の腕の中にいる。
菱呂も伊由古を守りたかった。防人であっても、霊女が儚くなることを望まなかった。
――この人も、同じだったのか? 僕とまったく同じ想いではなくても。
いつしか菱呂の体がかたかた震えていた。だから「理島を汚した」と口にした八右智は涙を浮かべていたのだろうか。
八右智はただ、紀流古と呼ばれた先代霊女の理島を、愛してしまっただけだとしたら。
理島をかごに縛りつけたのも八右智であるはずがない。
八右智が理島を愛しているなら、鎖で縛られた彼女は人質だ。彼を思い通りするためにだ。
他に理島を痛めつけた者がいるとすれば、『祭事家にいる別の男』だけだ。
「こんっ……な、ものぉっ」
菱呂は足元の石を手に取ると、かごに鎖を埋めた粘土を思いっきり叩いた。
「鎖を解くから逃げましょう。僕も力を貸します、四人で遠くへ逃げましょう」
めちゃくちゃに粘土を叩いた。一撃、二撃、やがて粘土の一角に小さな穴が開く。
しめたと思ったのも束の間、菱呂の手首を八右智が掴んだ。
「君はきっと思い違いをしている。理島は今しがた、君を殺そうとしたのだよ」
「でもあなたはさっき、僕に『消えてくれ』と言った。あなたが祀りの日、火和湖で僕に言おうとしたのは……『遠くへ消えてくれ』ということではないんですか。秘密を知った僕をそのままにはできない、でも殺せない、だから僕を逃がし、あなた方は伊由古と三人で屋敷へ帰ろうとした。違うんですか」
八右智はますます嫌らしく、ふふっと声を出し苦笑してみせる。
「ただの思い込みだな。私は娘を犯していた『父』だと――」
「やめてください! それは……あなたじゃないのでしょうっ?」
菱呂はもう、確信をもって叫んでいた。
「紀流古さんだった理島さんを愛したあなたが、伊由古にそんな真似するはずがない!」
ふと、まるで出し抜けに、理島が居住まいを正した。理島は足をそろえて地面に座り直し、ひざの前に指を突いて深々とお辞儀をした。
「わたくしは理島でございます、菱呂さま。他の何者でもありません」
美しい礼である。
霊女の居室で座っていた様すら思い起こさせた。
菱呂は、よく晴れた空を仰いだ。
「今朝は、曇っていますね」
鮮やかな日差しを受け、己の瞳と同じ色の空を目に映した。
「空一面を薄雲が覆っています。日はありますが、きっと空は崩れるでしょうね」
「ええ……本当に。今朝は、曇ってございます」
透き通った青空の下で、晴れた空を知れないその人は、穏やかに答えた。
この朝は、どこまでも澄みやかに晴れ渡っていた。
いよいよ菱呂の目から涙があふれた。空の瞳からこぼれる涙は、まるで雨だ。
見えたはずの空を知らず、今も捉えることのできない娘達のために泣いていた。
八右智が十六年間、実の娘が『祭事家にいる別の男』に蹂躙される様を黙って見逃してきた男、と言えばそれまでだろう。
しかし菱呂も理解した。御山からは何所に向かう道もなく、里を出るなら里のど真ん中を往かなければいけないのだ。
ろくに歩けない霊女を連れ歩き、生かすことが、どれほど難しいか。まして十六年前の祀りの頃、八右智の実母は存命していた。置いていけはしないだろう。その母が亡くなったら、今度は伊由古が成長していたのだろう。
霊女を抱え、母にしろ理島にしろ別のか弱き女を連れ、里の中心を逃げる。
しかも誰にも見つからず、どんな追手にも捕まらずに。
難しすぎる――認めたくなくとも、菱呂とて、そう思わざるをえない。
だから八右智は逃げられなかったのだと、今なら痛いほどにわかる。
たとえどんな牢獄だろうと、死を選ぶくらいなら、まだ意味がある。
全てを奪われるために生まれた娘を殺すくらいなら、どんな形でも、せめて、生きて。
生きることしかできないのなら、せめて生きるだけでも――
菱呂は体中全てを使い、力任せに鎖を引っ張った。
ボゴッと音が鳴り、粘土の穴がさらに広がった。固く埋まっていた鎖の根がぐらつく。
「僕が伊由古も理島さんも、あなただって護ります。あなたなら棒だって扱える、しかも前の防人だ。きっと逃げられる、だから逃げましょう」
「ひしっ……ろ君、わかっているのか、わかっているんだろう? 私と理島が十六年間、伊由古を見殺しにしたとわかっていて、どうして!」
「そんなの今じゃなくていい! 今ここで終わってしまったら、全てが本当に何一つ何にもならないだけだ!」
菱呂はもう無我夢中で鎖を引いた。繋がれた理島の体をいたわる余裕もなかった。八右智の目は恐れに満ちているようで、しかし菱呂の手を止めることもしない。
不意に、彼等の背後にするどい風が吹いた。