天の仔  第12章 − 5回


 しかし父は一切の逃げを許さない。
「堕胎はいかん、紀流古の体では耐えられない。まだ生ませた方がよい」
 父は厳格でいて、心から面白そうな笑みを浮かべた。
「お前は長い霊女の歴史で、一度や二度、こんなことも無かったと信じていたのか」
 八右智は驚愕で叫びかけたが、父は眼差しで軽く制した。
「まあ私の父は、違ったがね。あれは祖父、つまりお前の曽祖父の行いを見ていたから、自らは真っ当な侍人たりえようとしたのだ。お前の目には優しい優しい御爺様だったろうが、おっかない親父だったものだよ。――息子は父に背き、父は祖父に反し、祖父は曽祖父を嫌った……この家の侍人は、こうして続いて来た」
 父は薄灯りにほのかに影を作らせ、平坦な笑みを広げた。
「こんな過ちを犯せる者が、お前のような小物だけの筈があるまいて」
「ち、父……うえ。そんなこと、しかし……御山は、御怒りには」
「うん? 御山?」
 既に立ち上がり、部屋を出ようとしていた父は、
「あの灰色の汚らしい禿山がどうかしたか?」
 軽々と言ってのけた。
「いいか。この里は三百年、こんな場所に閉じ込められてきた。わしは都というものを知っている。だから分かる。この里がどれほど……まあ、どれほどのものかを、な」
 父はますます笑ってあざける。
「あわれだよ、ここの里人は。あんな禿山がどうした。赤子みたいな娘がどうした。それがどれほどのものだと言うんだ!」
「やめ……父上、おやめください! 家人に聞かれたら、なんて罰当たりな――」
 八右智がそこまで口にした途端、父は厳冬の冷気のような眼差しを向けてきた。
「ほら……みろ。お前とて里人だ。すぐそう言う。思う。山がどうだ、霊女がどうだと」
 はっとして、八右智は己の口元を恐る恐る抑えた。
 息子の様子を見て、父は深く息を吐く。
「信じさせてやらねばならん。あわれな里人のどれほど愚かな理屈でも、それがこの里の理だ。里人はその理を支えに今まで生きてきたのだ。だから胸が動き、息が吸えたと信じているのだ。それを――誰が止められる? できるか? わしに、お前に。……こんな程度の祭事家ふぜいに、できるか?」
 八右智は口を覆い続けることしかできなかった。
「まったく、感謝してほしいものだよ。こんなに面倒な霊女サマのお世話をしてやっている上に、殺すべきところを生かしてやってすらいるんだからな。祭事家のろくでなしどもは、まともに目も開いていないような里人に比べて、よほど優しいと思わないか? なあ――」
 父が部屋から去っても、八右智は影と共にうずくまったまま動けなかった。
 ろくでもない者達が続けて来た、見せかけだけの祀りだった。
 今まで十八人もの罪もない少女を、ある時は搾取し、ある時は言葉すら奪い、最後にはまるで厄介払いか火消しの様相で湖に葬り去ってきただけだ。
 そして、里の三百年だ。
 月日を重ね、御山の灰が降り積もった分厚い三百年だ。
 八右智は叫びも泣けもできず、「重い」というものを生まれて初めて味わっていた。
「きるこ、さびしい、でしたっ」 
 やっと紀流古にまた会えた時、彼女は自ら八右智に抱きついてきた。
 しかしもう大きくなっていた腹が、以前のように抱き締められることを不可能にしている。
「きるこ、おなかおおきいのです。ははうえ、おしえてくれても、わからないのです」
 彼女は自分の腹をなでまわし、首を傾げた。
「これ、いらないのです」
 八右智は遂に眩暈を覚えた。己の身がどうなったかも理解できていない少女を、己の行いが何を招くかも想像できなかった男が、守ることなどできるのだろうか。
 足元の何もかもが急速に崩れ去っていった。
 そして現実も、その通りに動いた。
 どんなに調べても、御山の向こうに抜ける道は無かった。
 紀流古の腹がいよいよ大きくなってくると、祭事家には「由馬」という妊娠して病気の女が流れ着いたことになった。
 霊女が十六を迎えた直後の満月、八右智は防人になった。
 数日後、娘が生まれた。
 家中に響いた赤子の泣き声は誤魔化せるわけがなく、誰もが赤子の誕生を知った。
 父は「誰にも見せないまま、殺しても良い」と言った。適当な言い訳を作り、男だったことにしてしまい、その上でくびってしまっても良いと。
 しかし八右智は出来なかった。暗に「殺せ」と命じた父に逆らいたかったのか。せめて己と紀流古の血を分けた娘だったからかもしれない。
 いや、娘が消えたところで、里から霊女はいなくなりやしなかったから。
 いずれにせよその娘が、次の霊女となった。
 そして次の満月、祀りの日がやってきた。