天の仔  第3章 − 4回


 菱呂は、里に生きている。火和湖防人でもある。見石と摩耶女のことは、仕方ないとしか言いようがない。でも二人を慰めたい想いまでも、咎められるべきだろうか。
 しかし――己は慰める術を知らない。親らしい親の下で育っていないからだ。
 だから、かつて葛藤を味わった、先代の霊女の母に請いたくなった。
 どうすれば痛みが薄れるのか。
 その痛みと寄り添い続けている人に教えて欲しかった。
 その為にまず、先代の霊女が生まれた三十二年前を知る者に尋ねた。
「あ? 先代の霊女さまの母親だってえ? それがどうした」
 昼間から酒に酔った――特に驚くことでもないが――菱呂の父は、杯から口を離すなり露骨に不機嫌に問い返した。
「僕も火和湖防人をお務めしている身ですから、里の歴史を知りたくなったのです」
「ほおう、熱心なこった。お前も大人んなったなぁ。たしか、誰っつったか……」
 彼は一人の女の名を挙げた。さすがに里で知らない者は居らず、父も覚えていた。
 しかし礼を告げた菱呂には、父の投げた杯が当たった。
「まだ日ぃ高いくせになんで帰ってきやがった、畑はどうしたってんだよ! 里中から汚れもん扱いのおめえを、わしがどぉ……んな気持ちで住まわせてやってると思ってんだ。ちったあ孝行しやがれ!」
 父は引きずった脚を振り回し、菱呂の体を蹴った。金色の髪を掴み、水色の瞳を目がけて拳を振り降ろす。菱呂はいつもと変わらず、父の気が済むまで苦しむふりをする。
 畑を疎かにするなど滅相もない。畑があるから、この家だって食べていける。
 菱呂は畑を耕し続け、日が暮れた頃に里の西外れへ来ていた。
 その家の扉には、穀物の茎で編んだ小さな輪がかかっていた。輪は霊女の生母の証で、本人が死ぬまで扉に下げられるという。
 いずれ見石の家にもかかるだろうか。
「ごめんください。斗々富貴(ととふき)さまはいらっしゃいますか」
 菱呂は軽く戸を叩いたが、返事はなかった。
「あの……」、もう一度大きな声で呼びかけようとした時、
「誰だい」
 扉が急に開かれ、菱呂はつんのめった。
 中から現れたのは、中年が終わりかけた女性だった。髪は白いが顔は豊かな美しさがあって、涙袋がふっくらしている。若い頃は相当な美人だったろう。今もみすぼらしさは全くない。
「突然すみません。僕、菱呂といいます。斗々富貴さまですか」
「そうだけど、あんた……ああっ、思い出した」
 斗々富貴は急に合点のいった顔をして、家の裏手の斜面を指差した。
「二年前、そこで、娼婦をかけて決闘やってた子だろう」
 よりにもよってそんな覚え方かと、菱呂は一気に真っ赤になった。
「あ、あれは僕が好んでしたことではなく、僕の父が……」
「そうか。あんたは何年も前に里へ来た、金髪娘の息子か」
 彼女は一人で喋って、ふうと息を吐いた。
「……あんた、有名なんだろ。あたしはあんたのこともすぐには思い出せないくらい、もう何年も里人と関わっちゃあいないのさ。あんたがあたしに用なんか無い筈だよ」
「僕は火和湖防人をお務めしているのです」
 すると斗々富貴の顔色が明らかに変わった。
「防人さまは先代霊女の母にお勤めする役目なんかあったのかい」
「いえ、僕は」
「憐れみにきたのかい、坊や」
 菱呂は刃物がどっさりと胸に刺さった気がした。
「帰っておくれ。用なんてないよ」
 斗々富貴の手で、ぱったりと戸が閉まった。
 何処に行っても拒絶されるしかない一日が、暮れかけていた。