菱呂は走り続け、何かから身をかわすように山を抜けた。
里が近付いてくる。
そうだ、家に帰れば良い。父も起きるし、子を生んだばかりの母を放ってはおけないのだから。するべきことは山とある。そして新たな一日をまた過ごすだけだ。
ああ、もう一日が経っていた。
なんて長い一日だったのか。
でも昔の話ではない。
その状況の待つ家が帰る場所だ。
これから月が欠け、満ち、満ち切れば祀りがやって来る。
その日限りで防人の務めは一切が終わり、また父と加佐名の面倒を見て、妹を養う日々が己の全てだ。
里に戻った菱呂は昨日と同じ姿の朝日を浴びながら、家に入った。
居間には、朝も昼も夜も同じ格好で座っている父が、今朝も同じく卓に頬杖をついてあくびをしていた。但しこの父にしては珍しい早起きだ。
「ふあー……あ、あ? お前、どこ行ってやがったんだ」
機嫌は相当に悪いままだが、酒も強く残っており、殴ってもこなかった。
父はもう一度あくびをすると、そのついでのように言った。
「死んだよ、加佐名の生んだ子」
彼はむにゃむにゃと唇を上下左右に動かしながら、卓に頭を付けた。
「なぁんか泣いて、ちちやろうとしたら吐いて、むせて、それっきりだったとよ」
父の言葉を待っていたかのように、奥に控えていた加佐名が頭を下げた。
「申し訳御座いません。私が至らなかったばかりに……」
「よせや、謝るこっちゃねえ。死んじまったもんは仕方ねえだろ」
父は面倒くさそうに加佐名へ目を向け、あくびを繰り返すばかりだ。
母の顔はいつも通り、唇が笑っているような形になっていた。
いつもと変わらず。
菱呂は土間に立ったまま、己か木か岩になった気でもした。
母は、子が要らないと言っていた。せめて男の子でなければならない、女の子なら要らない。さらにもし、義理の息子との間に子を成して、それが女の子なら――
何かが菱呂の頭をぐらりと揺らし、続けて膝を揺らしかけたが、
「うおい、菱呂。なんかあったかいもん作れ。胸が悪くてたまんねぇや」
父の酒臭い声が卓から匂ったら、
「はい、父さん。すぐに用意します」
菱呂はかまどに向かった。
脚がふらついたのは、一晩寝ていないせいにした。
休んでいないのだから、仕方ない。