次は祭事家へ向かった。
門番も三役の間まで案内してくれた家人も皆、何かを言いたそうだったが、いつもと変わらぬ彼の姿に告げる者は無かった。
「おはようございます、菱呂さま」
三役の間に現れた理島は、頭を下げるなり変な顔をした。いつもの眉頭を寄せて目を細めるやり方である。しかし今朝はそれにしても、目を凝らしている。
菱呂は控えの間に入り、白い衣を身に付けた。この慣習にすっかり当たり前の感覚を持っているが、まだ十日足らずの間の出来事だ。これが慣染み過ぎると、いつもの日々がおかしくなってしまう。
何せ自分の家は、父の待つ家だ。父と母を養い、妹の面倒を見て――
「そっか。いないんだ」
いなくなってしまったものは、仕方ないだけだ。
伊由古はまた座っているだけだった。今日は具合が悪いということもなく、ぼんやりと鎮座ましましている。いや、実際に眠そうである。うとうとしている。
菱呂は珍しい姿と思いかけたが、十日弱でそんな決めつけは早計だ。ここは特別な、何が珍しいとかありふれたとも付かない場所だ。彼女は言葉も文字も知らない、霊女なのだから。
――霊女?
菱呂のたもとの中で、あの箱がことりと鳴った気がした。
頭の中にじんわりと、その言葉が広がっていく。
霊女。
もう墓でのことなど忘れかけていたのに。
夜に吸い込まれて終わった話の筈だったのに。
伊由古の実母は里のどこにもいなくて、祭事家にだけ存在した女。
祭事家の者も里の者も誰も見たことがない女。
躯が墓に入ることも有り得ず、そして今はもう、何処にも居ない女。
――霊女さまだ。
伊由古を生んだ母は、先代の霊女だ。
「あ、あ……ああ、あ、あ」
その霊女に似た声が菱呂から漏れた。
意味を為し何かを示す言葉は、なに一つとして口にしたくないのに、頭の中身をかき消したいからこそ言葉が離れてくれない。
だから誰も、伊由古の生母の正体を知らない筈だ。
絶対に清らかでなければならず、湖霊の嫁君である霊女を、男が犯しているなどと考える筈がない。疑う筈がない。
己のように、伊由古が犯されている情景を知らなければ。
そう、今も昔も霊女に近づけ、犯せる男が侍人しか居ないのなら――
先代の霊女を犯していたのは、侍人だ。
八右智だ。
他の女なら始末したかもしれない。しかし八右智の子を身ごもったのは霊女だったから、彼女は祭事家の奥に潜み続けた。赤子を堕ろさなかった訳はわからない。だが事実として祭事家の奥から赤子が生まれることになった。そのために「誰も知らない身ごもった女」として流れ者の由馬が作り上げられた。役目を終えた由馬はすぐに「死んだ」。
八右智と先代霊女の子は女で、時機が求めていたから次の霊女になった。
伊由古になった。
――じゃあ、伊由古さまは……
父親に犯されている。
「……菱呂さま?」
理島が、衣をかぶっていても分かるほど体を震わす菱呂を訝しがった。
「ぼ……く、すみませ……具合が、ああ」
菱呂は逃げた。
衣を脱ぎ、倒れそうになりながら小屋を出た。
手を貸そうとした理島をも拒んだ。
触れられた所から何もかもが破裂しそうだった。