天の仔  第5章 − 7回


 次は祭事家へ向かった。
 門番も三役の間まで案内してくれた家人も皆、何かを言いたそうだったが、いつもと変わらぬ彼の姿に告げる者は無かった。
「おはようございます、菱呂さま」
 三役の間に現れた理島は、頭を下げるなり変な顔をした。いつもの眉頭を寄せて目を細めるやり方である。しかし今朝はそれにしても、目を凝らしている。
 菱呂は控えの間に入り、白い衣を身に付けた。この慣習にすっかり当たり前の感覚を持っているが、まだ十日足らずの間の出来事だ。これが慣染み過ぎると、いつもの日々がおかしくなってしまう。
 何せ自分の家は、父の待つ家だ。父と母を養い、妹の面倒を見て――
「そっか。いないんだ」
 いなくなってしまったものは、仕方ないだけだ。
 伊由古はまた座っているだけだった。今日は具合が悪いということもなく、ぼんやりと鎮座ましましている。いや、実際に眠そうである。うとうとしている。
 菱呂は珍しい姿と思いかけたが、十日弱でそんな決めつけは早計だ。ここは特別な、何が珍しいとかありふれたとも付かない場所だ。彼女は言葉も文字も知らない、霊女なのだから。
 ――霊女?
 菱呂のたもとの中で、あの箱がことりと鳴った気がした。
 頭の中にじんわりと、その言葉が広がっていく。
 霊女。
 もう墓でのことなど忘れかけていたのに。
 夜に吸い込まれて終わった話の筈だったのに。
 伊由古の実母は里のどこにもいなくて、祭事家にだけ存在した女。
 祭事家の者も里の者も誰も見たことがない女。
 躯が墓に入ることも有り得ず、そして今はもう、何処にも居ない女。
 ――霊女さまだ。
 伊由古を生んだ母は、先代の霊女だ。
「あ、あ……ああ、あ、あ」
 その霊女に似た声が菱呂から漏れた。
 意味を為し何かを示す言葉は、なに一つとして口にしたくないのに、頭の中身をかき消したいからこそ言葉が離れてくれない。
 だから誰も、伊由古の生母の正体を知らない筈だ。
 絶対に清らかでなければならず、湖霊の嫁君である霊女を、男が犯しているなどと考える筈がない。疑う筈がない。
 己のように、伊由古が犯されている情景を知らなければ。
 そう、今も昔も霊女に近づけ、犯せる男が侍人しか居ないのなら――
 先代の霊女を犯していたのは、侍人だ。
 八右智だ。
 他の女なら始末したかもしれない。しかし八右智の子を身ごもったのは霊女だったから、彼女は祭事家の奥に潜み続けた。赤子を堕ろさなかった訳はわからない。だが事実として祭事家の奥から赤子が生まれることになった。そのために「誰も知らない身ごもった女」として流れ者の由馬が作り上げられた。役目を終えた由馬はすぐに「死んだ」。
 八右智と先代霊女の子は女で、時機が求めていたから次の霊女になった。
 伊由古になった。
 ――じゃあ、伊由古さまは……
 父親に犯されている。
「……菱呂さま?」
 理島が、衣をかぶっていても分かるほど体を震わす菱呂を訝しがった。
「ぼ……く、すみませ……具合が、ああ」
 菱呂は逃げた。
 衣を脱ぎ、倒れそうになりながら小屋を出た。
 手を貸そうとした理島をも拒んだ。
 触れられた所から何もかもが破裂しそうだった。