八右智は狂ったように棒の稽古を始めた。
どうしたのかと相手を務めた家人も、すぐ勝負にならなくなった。里の若者とも組み、めきめきと逞しくなった。
例えば紀流古を担ぎ出すなんて、泥くさく危ないだけだ。父に気付かれ次第、何十人もの兵を相手にする事になる。近くの集落に辿り着いても追い付かれる。そもそも動けない紀流古を連れて、若い衆より早く山を抜ける自信は無い。
しかし祭事家と父の真実を晒して、里人の誰が信じよう。気が触れたと思われた末に、紀流古を傷付けたくはない。
死のう――形だけ。己も紀流古も知られぬ場所で、死んだ事にしてしまう。
それが可能なのは祀りの当日、火和湖に赴く時だけだ。
火和湖に入れる三役の内、侍女は母。後は己が侍人と防人を務めればこれ以上ない。
湖か崖に落ちたことにしてしまえば良い。
その頃、父は、嫁いだ娘を尋ねに都へ出ていた。八右智はこれを好機とし、祭事の間を縫っては山に入った。御山から何処をどう抜ければ里を出られるか探った。
紀流古とも肌を重ねるようになっていた。
感慨や情熱などより、彼女の純潔がやはりとっくに失われていた事が辛かった。
ある時、毛布にくるまり、八右智の腕の中でまどろみながら紀流古が言った。
「やつーちさまはいたいのです」
「うん?」
前髪をかきわけ、まだ汗の残る額に口付けると、紀流古はむずかって眉をしかめた。
「やつーちさまにこうされると、あちこちいたいのです。どうしてでしょう」
「どうしてかな……」
すると紀流古は、途端に瞳をきらきら輝かせた。
「やつーちさまも、しらないこと、あるのですねっ」
紀流古はどうしてかとても楽しそうにして、寝台に上体を起こした。
「ははうえに、ききますか」
「いやっ、やめろ! やめてくれ! その……俺としていることは、母上には、絶対に何も言ってはいけないし聞いていはいけない」
「はいっ。きるこ、おいいつけまもってるのです」
薄灯りの部屋で、紀流古は白の中に色付いた微笑みを広げた。
八右智は彼女の首と背中に両腕を回し、また寝台に横たえた。
「紀流古。痛いのは、辛いか」
「いたい。つらい」
「嫌じゃないかと聞いたんだ」
「いや。いや、ありません」
男の体の下で、紀流古は己の薄い胸に手を当てた。
「ははうえ、おしえてくれた、ありました。いたい、うれしい、です」
「そうか……」
背を丸め、口付けると、彼女も応えてくれた。
この口付けも、もう昔のものとは違う色に染まっているんだ。
紀流古の全てが己のものになっていると、信じていた。
月が三つ巡った頃、八右智は父から呼ばれた。正直、気が重くて堪らなかった。
ただでさえ最近、紀流古にろくに会えないのだ。
居室をのぞかせてもらったら、紀流古が本当に青い顔で寝台に横たわっているので「具合が悪い」旨が真である事は分かった。もっともこんな真なら、有難くも何ともない。
三役の間に入ると、父が上座に腕組みをして待っていた。
「お話はなんでしょう」
八右智はなるべく刺々しさを出さないよう気を付けたが、柔和な姿勢を貫くことは無理だった。最近はもう何を口走るか分からないから、父とろくに言葉も交わしていない。
「紀流古の具合が悪いそうだな」
父は「霊女さま」でも「紀流古さま」でもなく、出し抜けにそう告げた。
まばたきを繰り返す息子の前で、父は腹を抱えて大笑いした。
「こっ……れだから、若憎は! ろくに女も知らん、遊び方も心得ていないくせに、出過ぎた真似をするからこうなるのだ!」
父が不意に、表情を凍りつかせた。
冷淡で寒気が走るのに、どこか青ざめた顔だった。
「わたしの子でないことは、お前が一番よく知っているだろう?」
再び父が浮かべたひね曲がった笑みが、八右智の頭の中で炸裂した。
やっと、こんなに今さらになって、この体紀流古の身に何をしでかしたかを知った。
あとに残ったのは、何より他の誰より守るべきいとしいものを、己の手でずたずたに傷付けた絶望。
死んで許されるものなら、八右智はその場で死にたかった。