天の仔  第2章 − 8回


 菱呂はさっさと畑に向かった。
 あれこれを考える心が薄汚くて、汗と共に流したくて、意地でくわを振るった。
 畑でも山でも川でも昔は、見石とよく一緒に居た。菱呂の唯一の遊び相手だった見石は、十歳に満たない彼に色々を吹き込んだものだった。そして友が真っ赤になるのを面白がった。見石は里一番の棒使いだった男の息子で、心も体も爽やかに育った。しかし弟子扱いの菱呂にあっという間に追い抜かれたのは、やはり悔しい。からかいは、その可愛い仕返しだった。
 見石の父は今でこそ棒を引退しているが、かつては菱呂の父と都に赴いた兵の一人だった。だからだろう、あまり表には出さないが、菱呂の父へ明らかな同情を持っている。その父に躾けられた見石と、その幼馴染だった摩耶女だから、菱呂は友を得られた。
「――菱呂くん、こんにちは。今日も火和湖のお陰さまでございます」
 菱呂を思い出から醒ましたのは、あぜ道に立つ摩耶女だった。
「摩耶女さん、畑に出てきて良いのですか」
「もう、あの人も菱呂くんも、私も甘やかすのね。動かないとおなかの子にも悪いのに」
 彼女は橘がはじけるように愛らしく笑った。
 ――あの人、か。
 この娘はすっかり見石の妻になっている。更にはもうすぐ、母になる。
 彼は一瞬、二人の絡んだ姿を想像しかけて、
「っうわあ!」
 くわを畑に放り出した。
「菱呂くん、どうしたの。またどこか痛いの」
「い、いいえ、あの、虫が這っていたので」
「そう? 珍しいわね、菱呂くんがそんなことで驚くだなんて」
 心の底では誠心誠意謝った。妙なことのせいで胸がおかしくなっている。見石に色々を吹き込まれた幼い日だって、己と摩耶女の姿でそんな妄想はしなかったのに。
 摩耶女は菱呂の胸の内など知らず、子の話を進める。
「この子にも菱呂くんの姿をたくさん見せたいのよ。こんな風に美しくなりなさい――とね。菱呂くんの血筋ならすばらしいわ。あなたを抱いていたお母さま、それはそれは美しかったもの」
「は、はあ……」
「でも見石さんにもそう言ったら『お前、何もかもおかしいぞ』と溜息をつかれたわ。どうしてかしら」
 そりゃあそうだろう、と菱呂もひそかに肩を落とす。男にならって「美しくなりなさい」もおかしいが、何より「夫ではない男のように――」などと言ったら、まるで不貞を働いているようだ。摩耶女はまったく無邪気なだけだし、見石も妻を疑う男ではないが、そんなことを楽しげに言われても夫は困るだけだろう。
「畑なら、お手伝いしましょうか。僕の方は、今日はもう終わりでも構わないので」
 菱呂はあえて爽やかを気取った。
「だめよ、だって菱呂くんのところは……他に耕す人がいないもの」
 摩耶女は言い難そうにしたが、菱呂にとっては事実でしかない。
「仕方ありません。父はあの体だし、母上は身重ですから。ずっと僕一人で当たり前なんです」
 放り投げたくわを拾えば、隣り合った畑の者が、帰れと言わんばかりの顔をする。畑は家ごとに何代も前から取り分が決められており、菱呂の父が家長になろうと菱呂が畑に出ようと、場所は動かない。何百年も続いてきた里の営みの中にある。
 足をだるくして家に寝転ぶ父も、その男に寄り添う母も。この場所にある畑も。
 全て自分が父の息子として生まれてきたから、仕方がないのだ。