天の仔  第4章 − 1回


「あの……理島さんは、ご自分の母君をご存じですか」
 控えの間で白い衣に袖を通しながら、菱呂は出し抜けに尋ねた。
 案の丈、理島はのろのろと衣を被った後で、不思議そうな眼差しを向けてくる。
「僕は母を知りません。家に母が居なくて悲しかったことすらありません。でも……仕方ないこととは言え、僕の友で、母である人は、娘を……」
 失ったとか無くしたとは言えなかったから、その先は出なかった。
 理島の親や過去を詮索したいのではない。ただ、伊由古を十六年間も見守り続けてきた人なら、母に似た気持ちを持っているのではないのか。
 少なくともこの人は、己の知らない時を過ごしている。
 その想いを信じ、尋ねたかった。
「僕は友をどうやって慰めれば良いのかすら分からないのです。だからその術をご存じかもしれないあなたにお尋ねしたいのです」
 理島も菱呂を見つめ返してきた。
「わたくしも、母は存じません」
 嘘は感じられなかった。
「では由馬さまについては……ご存じですか」
 由馬を知りたい想いも、下世話な興味ではない。由馬もまた娘と離れ、あまつさえ娘より早く亡くなってしまった親だからだ。
 どんな想いを抱えていたのだろうか。
「由馬さまは何処かから流れて来られ、その時には身ごもっておられました。怪我と熱がひどく、この祭事家で看病をしていたのです。弱っていたのでしょう、亡くなられたのは、伊由古さまをお生みになってすぐです。わたくしもお会いできませんでした」
 その話がまた菱呂の感傷を誘った。菱呂自身が知らず、知らせてもらえないだけで、この屋敷の何処かに見石と摩耶女の娘が居るのだ。
 小屋までの道がこうも入り組んでいた理由が、今なら分かる。
 霊女を外へ行かさず、三役以外を防ぎ、混ざってはいけないものが混ざらないようにしてあるためだ。
「では……先代の霊女さまの、その母君についてはいかがでしょうか。実は昨日、僕はその方――斗々富貴さまをお尋ねしたのです。でも、軽くあしらわれてしまいました。やはり……友を慰めるためでも、虫が良すぎたのでしょうか」
「尋ねたのですかっ……?」
 理島は、菱呂も驚くくらい、驚いた。
 彼女の唇が何かを言いたげに震えた。菱呂も次の言葉をじっと待った。こんなことは初めてで、菱呂自身も戸惑う。この人は何を望み、何を言いたいのだろう。
「――菱呂さま。今は、お務めを」
 気付けば理島は頭衣を被っており、菱呂もすぐに従った。
 今朝の伊由古は様子がおかしかった。
「ぅ……うぅ、あ……あ」
 座に鎮座ましましてはいるが、体が左右にふらふら揺れて、頭が右に左に傾いている。どうやら眠そうでうとうとしているが、肌は赤く火照っている。
 菱呂は心配で理島を仰いだが、彼女はむしろ落ち着いていた。
「今朝は、少しお加減が宜しくないのです。すぐに寝ていただきますのでお務めを」
 珍しくせきたてられ、菱呂は手早く礼をした。理島は間も無く伊由古を抱き、座から引き上げようとする。しかし伊由古の足腰は立たず、うずくまろうとして動こうとしない。理島も体は細い方だから、おぶるのはおろか肩を貸すことすらできないでいる。
「伊由古、さま……お立ちになって下さいませ……! 眠れば、楽になりますっ」
「理島さん、あの、お薬とかで落ち着いていただいてはどうでしょうか」
「あっ……そうでございましたね」
 言われて初めて気が付いたという様子で、理島は鍵のついた棚を開けた。中に入っていたものを下から上へ、六段全て奥から手前にひっかきまわしていく。
 やがて棚が空になり、代わりに床に物が積まれたところで、肩を落としてしまった。
「お薬が切れております。取りに行って参りますので、お下がり下さいませ」
 理島は手短に言い残し、外に続く廊下から出て行ってしまった。
「下がる……って」
 菱呂は呟いた。部屋の右隅には、畑のかごが三つは一杯になりそうな物の山。何を収穫してしまったんだというところだ。
 一方、居室の中央には、左右に船を漕ぐ伊由古。
 手出し無用だとしても、この部屋をそのままに伊由古をおいては行けなかった。