きっと伊由古は、衣服とわかって袴を脱いだのではない。
体がもよおしたくならなければ、袴を脱ぐことは出来ない気がする。
ならば奴隷ですらない。奴隷はまだ、人だ。菱呂の母も、人だった。人だったからこそ里になじめず、言葉を知らないからこそ病んだ。
憤る胸を抑え、ちらっと横目をやれば、伊由古はもう袴をはき終えていた。
「……君は、人だよ。伊由古だ」
菱呂は精一杯に微笑みながら、伊由古の両頬を手で包んだ。
「伊由古。いーゆーこー」
「……ぃーうーぅあー」
言葉を繰り返すということは、身に着いているようだった。これも相手の――菱呂も男であるからこそ――望みを読み取ろうとするという、しつけの結果かもしれない。
しかし菱呂は、手を上げない。
殴らないのはもちろん、上手く言えたからとしても、変に撫でたり褒美を与えたりはしない。
それはどちらも獣だからだ。
「よっし。何か食べないとね」
菱呂は伊由古の手を引いて洞穴に戻った。
生きて歩いて欲しいから、これからは可能な限りおぶらずに歩こう。
洗って千切った山菜を一つだけの椀に入れた。石で組んだ即席の炉に火をくべ、枝で組んだ小さなかまどに椀を吊るす。山菜を採りに山へ入る時、この程度の細工は何度もした。やはり山は人を生かしてくれる。きっと大丈夫だと信じられる。
あたたかくなった汁をぬるくない程度に冷ましてから、さじにすくった。
「はい、伊由古。あー……」
つられて開いた彼女の口に、さじの中身を入れてやった。
伊由古は口を閉じたが、鼓動が五回鳴っても飲みこむ気配がない。
「あ、そっか、いつも食べてたものじゃないから……伊由古、伊由古っ」
菱呂は自分もさじを一杯、口に含むと、大袈裟に頭を振って喉を鳴らして飲み込んだ。
「こう……ね。ごくっと。飲みこんで」
つられて、伊由古も汁を飲んだ。
そんなことを何十回と繰り返した。
夕食が片付いてから、菱呂は改めて清水を汲んだ。今日は十二分に汗をかいたから肌を拭きたい。外でか洞穴かは迷ったが、伊由古を一人にする方が怖い。
「じゃあ、ちょっと失礼するね」
礼儀として声をかけてから、上半身だけ裸になった。後ろを向いて手ぬぐいで肌を清めていると、ひんやりして鳥肌の立った背中に頼りないぬるさの唇が触れた。
「伊由古」
菱呂は胸を拭いていた手を止め、素肌の背中に口付けた少女に呼びかけた。
「そんなこと、しなくていいんだよ」
これも、しつけの結果だ。きっと男が目の前で脱いだら、口づけるように。
声が震えた。また泣いてしまいそうになった。一度タガが外れたらすっかり涙もろくなったのか、それともこの有り様に我慢しきれないのか。
「しなくていいから」
涙をこらえ、彼女の体を押しやった。
白い衣が寝具代わりになった。日の出と共に出発するなら、もう寝た方が良い。
菱呂は伊由古を抱き、一つの衣にくるまった。彼女はすかさず、それはもう見事なほどに間髪入れず、菱呂の胸や腰に手を這わせ始める。
「ううん、それはいい。僕に、することはないから……ね」
彼女の手を両手で握ると、大きく目を開いてから瞼を閉じて見せた。
しばらく待つと、手の中で伊由古が脱力した。
頬をひくひく引きつらせながら右だけで薄目を開けると、伊由古は眠っていた。
「……おやすみ」
菱呂はささやき、落ちそうだった衣を伊由古の肩まで引き上げてやった。
☆ ☆ ☆