やがて視界が正しくなっていき、吐き気も収まり、菱呂はようやく頭を起こした。
「げほっ……けほ、け……はぁ」
斜面には薄い足跡が残っている。大股のものが一つだけだから、八右智は伊由古をおぶったのだろう。痕跡を辿り、棒を杖の代わりにしながら、菱呂は登った。左側に向こうの山を挟む谷が現れたかと思うと、人が丸まった大きさの岩がごろごろし始める。その間を縫って上に横に、時には下りながらも尚、上を目指した。
ふいに斜面の上から、石が幾つも転がってきた。
まったくなんの前触れもなく、見石が現れた。
「見石? どうしたの。どうして君が、ここに」
菱呂が驚いても見石は何も語らず、ゆっくりと間合いを詰めていく。
そして、
「……俺はお前を恨んでるんだ!」
叫びと共に、棒を振り降ろした。
間一髪、菱呂は左に転げた。すぐ次の一打を、棒の中心で弾き返した。
「見石っ、やめて、どうしたの!」
動揺が棒に伝わり、菱呂は防戦一方になった。見石はとにかく突きまくって生まれた隙を狙い、めいっぱいの身長差を取り、頭上から棒を叩き付けてくる。
菱呂は辛うじて避けたが、ついに左肩の付け根に棒の腹を思いっきり受けた。
「見石、お願いだよ。僕が何かしたのなら教えて。きっと謝るから」
険しかった見石の表情が更に歪んだ。片方の唇が持ち上がり、剥き出しになった歯が上下で強く噛み合わされている。太い眉がもう一回りも濃く見えるほど瞼に影が落ちる。
「謝るくらいなら、なぜ……娘を尋ねた俺の些細な願いも叶えてくれなかった!」
それは菱呂の知る、あたたかな大地に吹く風のような友ではなかった。
――どうして君は、そんなひどい顔を。
友は今、己の知る姿ではない。「きっと何かがあった」。
確心を掴んだ菱呂は、もう押されなかった。斜面を上へ下へと駆け回りながら胸は静まっていく。その心持ちで受ける見石の棒は、ひどくぶれている。大きな体を生かした良くも悪くも大味な彼の技は、注意深さが消えればおおざっぱなだけだ。
見石が斜面の上から棒をくりだしてきた時、菱呂は素早く身をかがめた。
的を失った見石は思いっきりつんのめり、体を砂利に埋めて倒れた。
「ごめんよ……今の君には、負けられないよ」
菱呂はまた走った。とにかく走った。
目が覚めた時よりもさらに大きなものに背中を押され、強い活力すら湧いてくる気分だった。
谷に流れる水の音が、聞こえなくなった頃。
不意に目の前を、背を超える高さの岩々が、壁となって塞いだ。行きにもくぐり抜けた、煮え岩の跡である岩の切れ目にぶつかった。
火和湖だ。
菱呂は辺りを見やりつつ、火和湖のほとりに足を踏み入れた。左の真横に目をやった。
果たして、岩肌の際に理島がうずくまっていた。
理島の後ろには一人乗りのかごも置かれている。伊由古を運んできたものと比べれば質素なものだ。
菱呂はさらに目を凝らし、息を呑んだ。
理島の右の足首が、鎖でかごに繋がれていたのだ。