天の仔  第14章 − 4回


 丸三日の旅を経て、菱呂は見石の新たな里に辿り着いた。家の形や集落の様子は故郷と変わりないが、ここは低い場所に開けている。かつての里より山が遠く、空が視界いっぱいに広がっている。畑は家と別れておらず、集落を取り囲む形に作られている。
 秋を迎えたやわらかな日射しと、高い空。
 よく晴れた日だった。
「俺の家は端の方でな」
 見石に連れられて家々の間に一歩入ると、すぐに童女とすれ違った。童女は菱呂を一目見るや否や、口をあんぐり開けて「おかあさまーっ」と家に入ってしまった。次の若い男三人連れも、通り過ぎた後で振り向いて、菱呂をじっと見て口の端を寄せている。
 物珍しく見られる事は慣れているが、嫌悪だけは感じなかった。
 知らない場所とはこういうものかと、菱呂は有難いのではなく、ただ新鮮だった。
 幾らか歩いた頃、家々が開けた。
 左前に広がる麦畑から、二人組の声がした。
 二人は幼な子と老女だった。老女は背を丸めて幼児の手を引いている。髪の半分くらいが白髪だが、衣越しの背中はたおやかで、きっと年相応に美しい。幼な子は、やっと歩いている歳だ。遠目にもほおずきのような頬が愛らしい。
 二人は顔を上げ、見石の向かう先の曲がり角を見た。そこには一軒の家がある。老女は子に何かを言おうとし、指を伸ばしたところで、菱呂を見た。
 老女の足が止まった。菱呂も足を止めた。
 ――斗々富貴さん。
 老女は、菱呂の身を今日ここまで生かし続けた言葉を与えてくれた人だった。
 今後は曲がり角の家から、元気の良い女が出て来た。豆のようにほっこりとした女は左右を見渡し、口を開く。
「どちらへ行かれましたか、いゆ――」
 女の顔が菱呂を向くと、その声が止まった。肩を跳ね上がらせ、口を両手で覆ったのも束の間、丸い瞳がみるみる真っ赤になっていった。
 と、歩幅の小さな足音が鳴り、家の反対側から一人の娘が現れた。
「おかえりなさいませっ」
 娘は長い衣を揺らし、老女と幼な子の二人連れに大きく手を振った。
 すると娘は己の手につられるように空を見上げた。
「ふあー……」
 娘は両腕を空に向け、高く掲げた。この空の色をした衣を揺らし、日を抱き空に触れるように、両手をめいっぱいに広げた。
「ひしろ、さま」
 娘は空に、そう告げた。
「ひしろさま、ひしろさまっ」
 長いまつげの降りる、やわらかな茶色の瞳で空を見つめていた。
 静かだった。菱呂も見石も日に当たり風に吹かれるまま、家の前に立っている。ただ、
「ひしろさま、ひしろーさぁまー」
 空へ手を掲げ、その名を呼び続ける娘の声だけが、風に響いていた。
 風が菱呂の衣を揺らし、ささやかな衣擦れが鳴った。
 その音で娘が菱呂を見た。
 娘は驚くでも戸惑うでもなく、ありふれた歩き方で、菱呂の目の前へ歩みを進めた。長い髪を揺らし、首を上から下に振って、菱呂を頭のてっぺんからつま先まで見やった。次はまた、頭へ視線を戻す。そして最後は首を右に傾げ、
「だあれ」
 半分が閉じた瞼の奥から菱呂を見つめ、尋ねた。
 菱呂は自分でも意外なほど、打ちのめされなかった。娘が、あの頃とは背の高さも声も変わってしまった己に気付かなくても、あるいは忘れられても、全く当然なことだ。それとも彼女は最初から、己を菱呂という者として捉えていなかっただけかもしれない。
 ただ、娘が――伊由古が生きていてさえくれれば良い。
 菱呂は何か言おうとした。言いたいことがあるのではなく、必要もなかったが、とにかく何かを言わなければいけない気がした。しかし喉が渇いて呻きすらも出て来ない。
 やっと口を突こうとした言葉は、ずっと忘れていた旧友――「仕方ない」。
「仕方ない」、全て何でもそう唱えることで、辛さを誤魔化した日々のように。
 その言葉が声になろうとして、頭をわずかに揺らした時。
 耳に流れた菱呂の前髪の間に、伊由古が出し抜けに手を突っ込んだ。
 伊由古はもっと近づき、彼の前髪から額から上瞼に指を触れさせていくと、最後は眼球に指を当てた。
「うわっ」
 さすがに少しひりついて、菱呂は頭を後ろにそらそうとした。
 しかし伊由古の手は菱呂の頬を両手で包んで、もう離れなかった。
「ひしろさま」
 伊由古は笑った。
 半分までしか開かない瞼を三日月の形に細め、真っ白な頬へ紅梅色のぬくもりを広げ、血が灯った唇を微笑ませた。
「ひしろさま」
 伊由古のうんと細められた瞳は、確かに菱呂の瞳を映している。白いものばかりで染まっていた彼女の瞳に、空の色が輝いている。
「ひしろさま。いゆこ、おかえりなさい。ひしろさま。ひしろさま――」
 真っ白だった肌に空を照らして、伊由古はその名を呼び続けた。
 菱呂は泣いていた。
それでも涙を流していたのは心だけだ。
 頬が引きつって、口が歪んで、自分でもおかしくなる変な顔をしているのだろう。それでも微笑み続け、まばたきすら堪え、瞼を開こうとしていた。
 空が宿ったこの瞳で、伊由古を見つめ、見つめられていたかった。
「うん、ただいま」
 絞り出した声で、ようやく伊由古の手に手を重ねた。
「菱呂が、ただいま。ただいま、伊由古」
「いゆこ。ひしろさま。おかえりなさい、ひしろさまっ」
 初めて目にした伊由古の笑顔に迎えられていた。