その頃は、毎日がとにかく面白くなかった――と、八右智は記憶している。
父の先妻が生んだ、年の離れた姉たちは皆、嫁に行った。
さて自分はというと、十六になったばかり。父から侍人としてのあれこれを無理くりにでも叩き込まれる日々だった。
同じ年頃の男たちは皆、逞しかった。畑に出たり、棒を扱ったりだ。
分厚い祭事服の下に隠した生っちろい己の身体が、八右智は好きではなかった。
秋のある日、父は正式に家長を譲ると言い渡した。
八右智はその日の内に、屋敷の奥の奥に設えられた、火和湖霊女の小屋に向かった。
侍人の役も、八右智には気が進まなかった。霊女の齢を考えれば、祀りは一年半後になる。その時、己は十八だ。それはまだかなり若く思われて、単的に言えば自信が無かった。
控えの間に入ると、侍女を務めている母が待っていた。
「本来ならこちらで、白い衣を召していただく決まりにございます」
「必要ないのですか。霊女さまに俗世のものは触れさせてはならないのでは」
八右智は当たり前のように問い返したが、
「そんなものは原理原則にすぎんよ」
父はさっさと二重の扉を指し示した。
「ここから先は、お前ひとりだ」
八右智は冷静さを装い、内心では山ほどの緊張を抱えながら「はい」と答えた。
霊女は何も触れさせてはならない方だ。言葉も知らず、色も知らず、食べ物も知らない。そんな方がどんな姿をしているものかと、考え出すと緊張せざるを得ない。
部屋の主は中央に座っていた。一段高くなっている座を椅子として使い、床に爪先を着けて膝を折っている。左手には布を持ち、右手がその表裏を行ったり来たりしている。
霊女と思われるその人は、部屋に入って来た八右智を見上げた。
顔にかかっていた長い髪が揺れ、白い顔があらわになった。水で一すじ引いたような繊細な瞼が持ち上げられ、梅の花びらほど紅い唇が薄く開き、更に左手から布が落ちる。
「だあれ」
彼女は首を右に傾げて、尋ねた。
「だあれ」
今度は首を左に傾げて、尋ねた。
人違いじゃなかろうか――八右智は本気で疑った。
霊女は言葉を知らない筈だ。
彼女は十四だという年にしては幼いが、こんなその辺りにいる子供らしい反応をするはずが――
「だあれ」
「や、八右智」
放っておいたら首が左右にもげそうだったので、八右智は急いで答えた。
「ややつちさま?」
「違う。八右智だ」
「ちあうゃつちだたま?」
「……八右智」
「やつちさま?」
「やつうち」
「やつうぅちさま?」
「や、つ、う、ち!」
遂に怒鳴ると、彼女は右手を下唇に当て、いかにも難しそうな顔をした。左手を広げ、人差し指を立て、「や」。中指を立て、「つ」。薬指を立て……先が続かない。数えられない。
「や、つ、ち、や、つ、うー、ち、や、つ、ち、や、つ、うぅー、ち、や……」
人差し指と中指を立て、三つ目の「う」で薬指が収まり悪く上下する。
「や、つ、ち……さま」
指を三本立て、首を右に傾げた。
「や、つぅ、うぅ、ち、さま」
小指まで立って、首を左に傾げ、そこで彼女は「あっ」と声を上げた。
人差し指で「や」、中指で「つ」、そして声を伸ばしたまま薬指を立て、「ち」。
「やつーち」
三本の指を立てて、それを見せびらかすように八右智へ向けて、
「……さま!」
波紋が生まれたのに似た、いっぱいの笑みを広げた。
八右智はつい、吹き出した。大声で笑うと彼女も一緒に笑った。
「……君は、名前は」
「きみは、なまえは。なまえ」
彼女は天井を仰いでから、眼差しを戻した。布を幾絵にも重ねた衣をまとめて座の中央にきっちりと収まり、とても丁寧な仕草で礼をした。
「きることもうします」
少し高くなめらかで、耳をくすぐる声だった。
八右智は座に近付くと、彼女――紀流古が左手に持っていた布を拾い上げた。四角い木枠に四隅が止められ、何本もの糸が行きかっている布である。
「これは」
「これ。んっと……ははうえが、きるこにさせているのです」
紀流古は右手の指に挟んでいた針も一緒に差し出した。
「ししゅーはゆびがうごく、よいのです。ははうえ、おっしゃてます」
「なるほどね、刺繍……か」
八右智は刺繍を見つめた。まだ縫い始めで形は分からないが、恐らく不得手ではない。娼上がりで裁縫が非常に得意な母が教えているなら、間違いない。
八右智はいつしか、また笑っていた。紀流古も小首を傾げながら楽しげに笑っている。
紀流古はただ漫然と。八右智は溜息の代わりに笑っていた。
八右智は己が、闇雲に驚けるほど幼くなかった事を知った。