天の仔  第4章 − 8回


 今、菱呂のかごには菜の花が入っていた。
 他でもない、斗々富貴に贈るためだ。
「どうしたんだい。今日は雨は降っちゃいないよ」
「畑にはあまり出ていないと昨日うかがったので。僕の家で採れたものです」
 菱呂がかごを差し出すと、彼女は目を細めて家に招き入れた。
 斗々富貴は熱いお茶と共に、菱呂を嫌みなくからかった。
「あんた、妻はまだ娶らないのかい」
 菱呂は危うく、茶を一気に飲んで喉を焼きかけた。
 何となく摩耶女の姿が浮かんで、通り過ぎて行った。彼女に対する想いは淡かった。見石と違い、己はまだ父になるという想像もつかない。幼い。摩耶女が友を選んだ筈だ。
 いいや、それどころか摩耶女は、己を男としてすら見ていないだろう。いつも彼女はお決まりのように「あなたのお母さまは」と口にする。菱呂自身すら知らないこの生母が、よほど美しかったのだろう。生母という人は幼かった摩耶女に、大きな憧れを抱かせたのだろう。
 摩耶女はもちろん、菱呂がどんな者であっても優しかっただろうが、根底には「あの美しいお母さまに似ている美しい菱呂」だから関わる、という想いがきっとある。菱呂はそれが薄情だとは決して思わない。
 菱呂とて、今なら分かる。摩耶女への想いは、彼女しか言葉を交わす女がいなかったという程度のものだ。母も姉も友人も女も、全て彼女しかいなかっただけに過ぎない。
 己の想いもそんな程度だった。
 いよいよ何も無くなった身には、家が残されるばかりだ。
「僕は父と母と、生まれてくる兄弟を養わなくてはいけませんから」
「あんたの父さんは?」
「父は足が悪いのです。母も畑に出たことがある人ではありません」
「あんたも難儀な生まれだねぇ。あたしが十六の頃は、里のどの男と結婚したいとかしたくないとかの話ばっかりだったけれどねぇ」
 難儀――己の生まれがそんなものとは、菱呂は考えた事もない。
 ただこの里に、あの父とそういう母の元に生まれたからには、仕方ないことなのだと。
「でもあんたは、よく惚れられるだろう」
「えっ……え?」
「顔が美しい、それで畑もこなせて山菜も採れる働きもの、棒は里一番の腕前。これ以上の男がどこにいるさね。あたしが若かったら、あんたを好いてたかもしれんよ」
「いやっ、あの」
「あはは、若かったら……だよ。あたしはもう子供の一人もひり出した、婆じゃないか」
 斗々富貴は尚もいたずらを続けたが、菱呂の眼差しは次第にぶれていった。
「……斗々富貴さんは僕が不快ではないのですか。僕の母は西の遠くから連れられて来た娼婦で……父は婚儀すらあげていません。だから僕の髪と目はこんな色なのです。僕はどこに行っても一目で、父と母の息子だと分かってしまい、嫌われているのです」
「そうかい。あんたの今の母さんは、生みの母さんじゃなかったんだね」
 その答えも、菱呂が今まで受けた全ての言葉の中にないものだった。
「あたしは、あんたの母さんが生きてないことが気の毒だと思うだけだよ。こぉっ……んなに立派に育った息子を知らないんだから」
 やはりだ。
 どうしてこの人と話をしていると、熱いものが満ちていくのだろう。
「あたしはあんたの母親も父親も知らない。ただ同じ母親として……一日も抱けなかった娘の母だけどね、あんたの母さんが無念だったろうってだけだよ」
 ――無念。
 それはまた別の感触で菱呂の胸を刺した。
 斗々富貴は、霊女となった娘のことは仕方ないと話していた。
 でも、どこかでは無念と思っていて、またどこかでは仕方ないと思っていて。
「紀流古さん」
 菱呂は口を動かそうとか言おうとしたのではなく、ただ声が溢れた。
「紀流古さんと、おっしゃるそうですね」
 もう十六年も前にお役目を果たした娘の名なら、声にしても許されるのではないかと。
「斗々富貴さんの、娘さんのお名前は」
 斗々富貴のふくよかな頬が、ゆっくり膨らんでいくようだった。
「……そうかい」
 菱呂はしっかりと頷き返した。
「あたしの名前の音が、一つ、入ってるんだね」
 斗々富貴の声はもう湿っていた。
「わかって……そう、名づけてくれたんだろうかねぇ……」
 そう言い終わるか終らないかの頃には、彼女は顔じゅうをくしゃくしゃにして泣いていた。涙が激しくないのは、声が大きくないのは、あまりに深すぎたからだろう。閉じ込めていたものはどこまでも立ち塞がっていて、一息と一時で絞り出せはしないからだ。
 菱呂は斗々富貴に孝行したかった。この霊女の母も癒せないようでは、見石と摩耶女を慰めることもできない。
 でも泣いて欲しかったのではない。
 斗々富貴は泣き濡れた両手で、菱呂の両手を包み込んだ。
 そして一瞬、涙を忘れて、菱呂の手のひらをひっくり返してまじまじと見つめた。
「働き者の、いい手じゃないか」
 そして涙で引きつった笑みをみせた。
「ありがとう」