窓にはめた二重に設えた木の蓋から、淡い夜明けが伝わってきた。
菱呂は服を着替えて静かに部屋を出る。居間を挟んだ向かいの部屋からは、父の高いびきが聞こえてくる。
――父さん。僕は父さんのこと、嫌いと思ったことは一度もありません。
深酒をしすぎた時の少し陽気な父が、嫌いではなかった。文句を言いながらも作ったものは残さず食べてくれる父が、嫌いではなかった。
――ただ僕は、この家の者ではなかっただけなんです。
土間には、普段の蓄えより幾らか多くの食料がある。果物も穀物も、酒も、全て菱呂が毎日少しずつ量を増やしていた。
「父さん。母上。どうぞ、仲良く」
しっかりと礼を残し、家を出た。眠る前に磨き、夜に晒していた棒を、しっかりと右手に握りしめる。夜風に当たって引き締まった木肌が涼やかだ。
祭事家の屋敷からは灯りが漏れ、この家がもう動いている事を物語っている。
屋敷の正面の階段を上れば、いつも素通りしていた祭場に通された。
「朝早くからご足労、痛みいる」
祭場の中から八右智が出てきた。今朝も彼は白と黒のみの衣服だが、黒い上衣には白い糸で縁取りの刺繍が施してあり、特に上等なものだ。
続いて理島も姿を見せた。白地に白い糸で刺繍がなされた衣である。
「お二人は特別なのですね。僕はいつも通りの衣服で良いのでしょうか」
「それでいいのだ。君は防人なのだから、闘いの格好でなければならない」
菱呂がしっかり返事をすると、八右智は祭場を向いた。
「祀りは日が出てからと決まっている。それまでもう少し待っていて欲しい」
促され、菱呂は部屋を回り始めた。あちこちに太く長いろうそくが立ててある。壁伝いに柱のように置いてあるため、室内はかなり明るい。
部屋の中央には、四段の祭壇があった。高さは菱呂の背とほぼ同じで、一番下の段は人が縦に三人並べる長さである。段は灰色の布がかけられ、上に行くに従って幅が狭い。
一番下、四段目にはずらりと供物が備えられていた。米も菓子もあり、魚は川から採ったばかりだ。初めて見る色形の豆もある。山で咲くおよそ全ての花も散らされている。
三段目の供物は、白かった。
「伊由古さまのものですか」
「火和湖に行かれるときは身一つだ。火和湖に俗世のものを入れてはならない。供物はもちろん、伊由古さまの使われるものも、全てここで供えて置いていく」
段には白い服や寝間着を始め、食器にまくらや布団も置いてあった。中には彼女が唯一口にするという、白い饅頭もある。表面に粉がまぶしてあり、一口で食べられる大きさだ。生地の中身はうかがえないが、美味しそうには感じられなかった。
二段目には、桶だけがあった。中には水が張ってある。
最上段、一段目には、「御山」と書かれた紙が中央に置いてあった。四方の角にはろうそくと香炉が並べて置かれている。ろうそくは赤く染めてあり、香炉はごつごつした石に似た形で黒い。おまけに香炉にも関わらず、腐ったものが熱くなった嫌な臭いがした。
と、目を上に転じると、天井にも一枚の紙が張ってあった。ちょうど「御山」なる紙と向き合わせ、「天」と一文字、記してある。祭壇は御山を模してあるらしい。
祭壇の周りは真っ赤な布で囲まれ、最下段の手前には何かが布をかぶっている。後ろの壁に近い、菱呂たちの座る丸座布団だけが茶色い。丸座布団は、全部で四つ。
やがて扉が開き、一陀羅が入って来た。
「八右智。丁度、日が昇った」
一陀羅の言葉を合図にし、皆が動いた。左から順に菱呂、理島、八右智、一陀羅が座った。八右智の席が祭壇の中央へ来るようになっており、即ち菱呂が下座である。
室内は静まり返ったのち、八右智が大きく息を吸った。
「おんやまひのなみたまずまります――」
一瞬、聞き惚れてしまう程の良い声だった。
八右智はしばらく祈りの文句を唱えていたが、或る一時になって口を止め、祭壇の下に置かれた物に被せた布を取った。
布の下には真っ赤な器があった。
中には灰が入っている。