天の仔  第3章 − 1回


 あたたかな朝だった。
「おう、菱呂! あーその、あれだ、なんだ、あれだよあれ」
 卓に向かった父は、珍しく少年のように無邪気に笑って手を振った。
「見石んとこに、赤ん坊が生まれたんだ!」
「ああ、はい……ええっ!」
 寝起きの菱呂は、まず大声を上げるしかなかった。加佐名もやわらかに微笑む。
「今朝がた、表を行きかう音で目が覚めましたら、そう話している人達が何人も」
「あぁはい、はい、ありがとうございます。ではお見舞い、あ、お祝を」
 そして急に落ち着かなくなって、居間をそわそわ回り出した。
「ぅおーい菱呂、今お前が行ったって何にもならんだろ」
 父は喉の奥から笑った。菱呂は、はあ……と頭をかく。
 加佐名も、いつにない様子の継子に目を細める。
「私、仲間が子を生んだ時に手伝ったことがありますが、しばらくは静かに寝かせておくものでございます。いずれお祝に誰か訪れたなら、後に続けば宜しいですわ」
 今、彼女の唇は本当に笑っている。
 一家がこの三人になってから、もしかしたら初めて「父、母、子」という気分で過ごしたのかもしれない。子が生まれるとはそういうことなのだと、菱呂はほっこりしたものを感じていた。よその家の話でこうもなれるのだから、加佐名が子を生めばもっと良い。
 祭事家も今朝は慌ただしく、早い時間から家人が廊下を走り回っていた。
 菱呂は待っている間もあれこれ考えてたまらなかった。
 二人の子なら男でも女でも、果実のようだろう。許されるならいくらでも遊び相手になりたい。男の子なら棒の稽古を付けて、女の子なら山菜の豊かな場所を教えてやれる。畑の良くない時は重宝するものだ。
 やがて三役の間にやってきた理島は息が切れていた。
「お待たせ致しました、菱呂さま。立て込んでおりまして、申し訳ございません」
 部屋に入り際、足がもつれた。そして今朝も眉を変な形にゆがめ、目を妙に細める。
「遅くなったこと、お怒りでございますか」
「構いませんが、何かあったのですか」
「この里に女の赤ん坊が生まれたのです」
「あっ……見石と摩耶女さんの家ですか、そうなんですよね!」
「え、ええ……お二人をご存じなのですか、菱呂さま」
「知ってるもなにも、僕の大切な友人です!」
 菱呂は丸座布団から飛び上がり手を叩いた。顔中に笑みが広がり、人前だというのに、幼子のようにはしゃいでしまう。
 ――そうか、女の子か。じゃあ見石に似れば風のような子に、摩耶女さんなら、それはもう愛らしいに決まってる。どちらにも似れば、やっぱり野原のような子だ。
 教えてやることは山菜摘みに決まった。もちろん少ない力で畑を耕すコツも忘れない。愛らしく、度量も広く、畑も山菜もこなせる器用さがあれば申し分ない。いい嫁になる――
「ああ、すみません。ちょっとうれしくて……」
 菱呂は微笑のまま理島を見た。
 彼女は明らかに悲しげな顔をしていた。
「そう……でしたか。菱呂さまの、ご友人にございましたか……」
 嫌な響きがした。その「ご友人」に何かがあったと言わんばかりに。
 祭事家が騒いでいるのであれば、まさか――葬式か。
「見石の子に何かあったんですか」
 菱呂は声を大きくしたが、理島はすっと立って扉へ体を向けた。
「お務めにございます。防人さま」
 猶予の無い響きだった。
 菱呂は伊由古への挨拶も上の空だった。相手は相変わらず座って動かない。最近はこれを「座っている」と呼んで良いものかどうかも迷う。伊由古は「立つ」「座る」「寝る」という一つ一つの動作の意味など、理解できていないだろうからだ。
 いずれにせよ、この少女が晒される行いの是非より、今は見石の子のことを知りたい。
 白い衣を脱ぐと、もう我慢しきれなくなった。
「理島さん、教えてください。見石の子に何があったんですか」
「本日は里に女の赤ん坊が生まれましたゆえ、これより八右智さまから新たなお話がございます。三役の間にいらしてください」
「理島さん!」、いい加減に苛立ち、菱呂は彼女の前に回った。
 理島は思わず息を呑むくらい、悲しそうにしていた。
「菱呂さまは本当に、次の霊女さまが選ばれる仕組みのことをご存じないのですね……」
 憐みであり同情であり、ただただ気の毒という声で。
「霊女さまが十六歳になってから、初めて里に生まれた女の赤ん坊が、次の火和湖霊女になるのです」
 その言葉を聞き、やっと菱呂も口を閉じた。