天の仔  第7章 − 2回


「てんじょうおんかたちじょうおんやまひわこわれなるとたまにおろせし――」
 八右智は器を小脇に抱え、立ち上がった。文句を繰り返しながら祭壇の真横へ回る。それから器に手を突っ込み、摘まんだ灰をおもむろに赤い布へ撒き始めた。
「ひわこわれなるとたまにおろせしてんじょうおんかたちじょう――」
 部屋の中がすぐに埃っぽくなり、鼻につく匂いが広がり始めた。菱呂は密かにむせた。
 ――これが御山のお怒り。いいや、こんなものでは済まなかったんだ。
 こんな程度の灰ですら、息が詰まるというのに。
 三百年以上も前に里の者たちが御山の怒りをどれほど恐れたものか、少し分かった気がした。
 やがて祭壇の周りから部屋の四方へ灰が満ちると、八右智は祭壇の前へ膝を突いた。
 隣にあった白塗りの箱を開けた。中には白い紙と、小刀が入っている。
「とおなるももなるちなるつみにひなるいわなるくもなるまがことふらちぬ――おんいづるのどよみてよるにておんあれませるあけなるあかつき――あれあおぎこうはひのわたひのなみひのあめしずめたまえとひとたまもちて」
 彼は刀をさばき、紙をそいでいった。紙が人型になると、それを二段目の水が張った器に入れる。
 紙は水が浸み込み、器の底へじっくり沈んだ。
「――きこしめせとかしこみかしこみかしこみももうす」
 八右智は己の座に戻り、立ったままで一度、礼をした。次に膝を床につけ、頭を三回下げ、両手を胸の前で合わせ、また一度頭を下げる。それから何回か呼吸の間がおかれ、
「皆さま方、手をおろしてください」
 いつもの声と顔に戻り、左右を見た。
 またすぐに八右智が立ち、皆も席を辞す。祭壇へ礼をし、順番に扉を抜ける。
 回廊越しに見る外は、もう空の半分が朝焼けになっていた。
「理島、霊女さまのお支度を。その間に菱呂くんを一旦、三役の間にお通ししなさい」
「かしこまりました」
 菱呂は理島に連れられ、いつも通りの回廊を抜けて行った。
 残った八右智は、一陀羅を仰いだ。
「父上、ご心配には及びません」
「……本当に、できるのだな」
 八右智は懐に手を入れ、何かの得物の柄をのぞかせた。
「火和湖までは従者のみ、最後は三役しか立ち会いません。誰にも知られないことです」
 彼はその柄をしまうと体を傾け、父に肩越しで告げた。
「あの少年は、私が片付けます」
 実に平坦で落ち着き払った息子の長い髪へ、一陀羅は溜息を一つくれた。
「こんな罪人が、侍人か。恐ろしいものよ」
 一陀羅はきびすを返すと、回廊を反対の方向へ歩いて行った。

   ☆ ☆ ☆

 菱呂が三役の間で待っていると、八右智が家人の若者を二人従えてやって来た。
 若者は真っ白く塗られた籠の前後を担いでいる。
「ここから先は私と君の役目だ。重いものは持てるね、菱呂くん」
「はい。見石にも負けません」
「宜しい。では、君は籠の後ろを持ち給え」
 八右智は小屋側の扉を開け、籠の前側の棒を肩に担いだ。菱呂もならい、後ろにつく。棒に吊り下げられた籠は、木を桶のように組んでいる。側面には小窓が付いている。かご全体が白く、一切の装飾は無い。中身はまだ空だから大した重みもなかった。
 籠と共に小屋へ向かった。
 居室の伊由古は既に婚儀の衣装を身にまとっている。
 婚儀の衣装は、女は白と決まっている。肌が透ける程の薄い下衣を重ね、上衣は胸の下で何重にも縛っている。袴は下衣に隠されている。重なり合った下衣が花びらで、さながら上衣は花のがくだ。更に背中から腕へ幾重もの羽衣を巻き付けているため、全ての衣の数はとても一目で数えられない。それでも伊由古に重苦しさはない。
 菱呂は一年前の、摩耶女の婚儀を思い出した。形としては同じものを着ていたが、ころんとした豆のように愛らしい摩耶女には、なんだか大人しすぎて窮屈だった。
 それがこの伊由古にはたとえようもないほど似合い、同じ衣装とは信じられなかった。
 伊由古に出会ってから初めて、彼女を心から美しいと感じた。
 生きているから、人の姿だから、美しい。