天の仔  第12章 − 6回


「いやーああああああっ、やつーちさま、いやあああああっ」
 火和湖のほとりで、紀流古は身も世もなく泣き叫んでいた。
 水をまぶしがる目は湖を見るたびにくらみ、体はすべらせ打ちつけ、当りどころが悪かった時は弱い足が折れた。
 紀流古は、静かに追って来る八右智に追い付かれようとしていた。
 折れた左足に引きずられ、紀流古は転んだ。もう何度も左にばかり傾いて、ろくに転び方も知らない少女は、顔面から思いっきり地をこすっていた。美しかった肌は繰り返し裂け、顔の左半分は血にまみれ、ただれて見るも無残な様になっていた。
 御山からは何処にも行けない、逃げられない。
 望みが断たれた今、全てを無かったことにして、紀流古は霊女にならなければいけない。
「やつーちさまっ、きるこ、わるいしましたか」
 怯え切った紀流古は八右智の上衣の裾を引っ張った。
「ししゅー、うまい、します。いっぱい、します。きらい、さびしい、いやです」
 彼女は初めて涙を見せていた。泣き喚きながら、その人の名を呼び続けた。
「やつーちさま、やつーちさまぁ……っ」
 誰より求め合った少女のすがる手を強くひきずり、八右智は火和湖の湖面に向かった。紀流古の体の全てが片腕だけにかかっているのに、それでも彼女は本当に軽かった。
 火和湖のふちに、八右智のつま先が触れた。
 大きく風が吹き、日のまぶしい光を雲が一時隠した。湖面にきらめいていた光が消え、湖はますます穏やかに奥まで透き通った。
 しんと静まり返った湖の奥、奥の奥に、何かがゆらいだ。
 八右智は目をこらした。藻や糸のようなものが湖の深くに沈んでいる。
 まばたきの後、今度はもっとくっきりと、それらの姿が目に届いた。
「……ぁ……ひっ」
 瞬間、八右智は後ずさった。砂利の斜面にかかとを阻まれ、そのまま尻もちを突いた。
 湖に沈んでいたものは、人の体だった。
 藻に見えたものは朽ちた服。糸に見えたものは褪せた長い髪。しぼんだ体や――骸骨。
 昔々、火和湖に沈んでいった幾人もの霊女たちの亡骸が沈んでいたのだ。
 八右智の体中から汗が流れていた。再び顔を出した陽の光が辺りに届き、湖面は輝き、もう湖の奥は見えない。何も見えない。
 しかし、なかったということではない。
 いなかったことにされ、時に蹂躙され、奴隷とされ、奪われるだけ奪われて命を失った霊女達が沈んでいた。
 死してなお誰にも省みられず、ひからび、朽ち、色褪せていった霊女達だった。
 ――紀流古も、その列に入るのか?
「紀流古っ……」
 八右智の膝が崩れた。あらん限りの力で傷付いた紀流古を抱き締めた。
 腕の中で、紀流古の体が安らいでいった。
 今しがたまで己を殺そうとしていた男の腕で。
「許してくれ、紀流古……紀流古……!」
 繰り返し名を呼び続ける内に、紀流古は瞳を閉じて気を失っていた。
 八右智は彼女を両腕で抱き上げると、母が待つ火和湖の入口へ戻った。
「俺は、父の奴隷になります」
 憔悴していたが、それとは比べものにならないほど強い声が腹の底から出た。
「その代わり、一生でたった一度だけ、一つだけの、願いがあります」
 真っ直ぐに母を見つめて、告げた。
「俺は紀流古を殺せません」
 母は手を伸ばし、息子の頬に触れた。
 八右智は少し驚いた。
 いつも無口で物静か、父に従うばかりか、息子にすら遠慮している母である。
「母はあなたを、誇りに思います」
 自らも静かに涙を流しながら、母はそう答えた。
 顔がくしゃくしゃになるのを必死に抑え、引きつっていく頬をなだめ、血がにじむほど唇を噛み締め、八右智はただじっと堪えていた。
 後から聞いた話では、他所からこの里へやってきた母は、霊女という存在に馴染みようがなかったらしい。侍女を命じられた時も、むしろ率先して言葉や刺繍を教えたがったという。娘を生む機会に恵まれなかった母は、紀流古を実の娘と変わらず想っていた。
 やがて斗斗富貴の贈り物に、紀流古の縫った刺繍を忍ばせたのも、紀流古の生母を偲んだ八右智の母だった。
 そして祀りの翌日から、紀流古は「理島」になった。