静かに自室へ戻ると、寝台の上で何かが動いた。
二、三度、目をしばたいて、母がこの部屋に居ることを思い出した。
窓から入る月明かりは寝台にしか届かず、ここに居る筈の妹の姿は照らされないが。
「すみません、僕、つい……居間で寝ます」
しかし滑らかな肌が手首に触れてきたかと思うと、菱呂は寝台に引きずり込まれた。
「わっ……!」
視界が回り、気が付いたら、寝台に横たわっていた。脚が何かに挟まれ動かしにくい。両腕を横に広げられ、手首をがっちりと掴まれている。
体の上に、加佐名が覆いかぶさっている。
「はは……うえ……?」
彼女の寝間着は前がはだけ、菱呂の胸や腰に垂れていた。月光線が体をわずかに縁取り、裸になった体の形を淡く浮かび上がらせる。菱呂の真上には露わな首がある。
「母上、なにを」
驚き、赤くなって、菱呂はすぐ退こうとした。しかし抑えられた手首も、膝で挟まれた脚も、簡単には動かない。加佐名のひじは震え、背も崩れそうだが、必死がみなぎっている。子を生んだばかりとは思えない力だ。
「菱呂さん……」
母は頷くように首を動かし、菱呂に目を合わせた。
「お情けを、お与えください」
いつも微笑みの形をしていた口元が崩れ、頬が下の方に落ちていた。
「私は、死にたくなかったのです。嫁いだわけなどそれだけです。でもあなた様が妻をめとれば、継母の私などすぐに居場所がなくなりましょう。だから子が欲しかった……なのに」
涙に濡れた頬が光って、菱呂は気付いた。加佐名の肌が赤い。
父は、要らない娘を生んだ妻を殴っている。
「待って、待って……落ち着いて。子供なら、だって、男の子なら次はきっと……」
「次などありませんわ」
いつも笑っていたような加佐名の唇が、本当に、嗤った。
「あの男は種なしですもの」
彼女の喉の奥から、噛み殺した笑いが漏れた。
「私は娼婦。男の体も女の体も知っていますわ。なのにあの男の子は私に宿らなかった」
何を言われたのか、菱呂はわからなかった。抗うことすら忘れた。
「今日生まれた子は、この里の誰かの子。あの男が眠った隙に家を抜け出し、夜に酔っ払っている男を誘い出した時の子。あなた様の父だって、違う男のはずですわ。あなた様の母君なら美しかったに決まっていますもの、興味を持った男は何人もいたでしょうもの」
加佐名は泣きながら笑っていた。その涙が首や頬に落ちても、菱呂はまだ身じろぎ一つできない。顔が徐々に近づいて来ても呆けている。
「お慕いしているのです……菱呂さん」
なまぬるいものが菱呂の首を這った。
淡い痛みと、しゃぶられる感覚。
それが加佐名の舌と唇だと気付いて、やっと目が覚めた。
「いっ……いけません、母上!」
いけない、ただその言葉だけに体を動かされ、菱呂は跳ね起きた。
「母ではないわ。二十二の、女です。それとも年上の女はお嫌いですか」
加佐名はにじり寄り、菱呂は尻を付けたまま後ずさった。寝台の上を、寝具を波紋のようにうねらせながら二人は動き、いつしか彼の背は壁についている。
「お情けさえ頂ければいいのです。他言無用、秘密は墓まで持って参ります」
「待って……だって、だって、僕の母は金色の髪と水色の瞳だったのです。僕の血が混ざれば、きっと子もそうなる。そうしたら、あなたは……父は……!」
おぞましい想像を言葉にするのは、蛇の動きをする手をなだめたいからだ。でも、
「もし、私とあなた様の子が、その髪と瞳を持ってしまったなら……」
すえた妄想を吐きながら、女はあざけった。
「殺すだけですわ」
菱呂の耳が、また遠くなった。
「子を生む場に、男は立ち入りませんもの。生まれて、確かめたら、死にながら生まれてきたことにしてしまえばいい。赤子の首など、私でもたやすい」
母の言葉に引き寄せられたように、部屋の何処かにいる赤ん坊が泣きだした。
「は、母上。早く、おちちを」
菱呂はどこかで胸を撫で下ろした。やはり加佐名は母で、ここには赤子がいる。これは何かの間違いで、夢を見ていた――
「構いませんわ、どうなっても」
夢はこの刻か。
「どうせ要らない子ですもの」
夢の方が救われるほどか。
「あっ……あ、ああ……あ、あ」
菱呂から、霊女に倣ったかのような、声にならない声が出た。
そして頭の先から足の指まで、血が滝となって一気に下り落ちると、
「あああああああああ!」
加佐名を振り切り、もう無我夢中で家を飛び出していた。